10

ノートブックを買いに。

ステーショナリーショップは、冷房で程よく冷えていた。長細い店内の左手には、キャンバス地の長細いスツールが設置してあって、簡単なウェイティングコーナーになっている。この店はノート一冊でも丁寧に包装紙で包んでくれるから、客はあの場所で待つわけだ。彼は包装紙のデザインが好きだった。そしてスツールに座ってじっと待つ時間も。

奥へ進みながら “今日こそはノートを買う”と、こころの中で唱えた。ノートブックコーナーの前へ立つ。分厚い表紙の黄色い一冊を手に取る。金色のリングで閉じられたそれは、ボリュームがありすぎるとおもった。次に手に取ったのは、グリーンの薄いベーシックなもの。このタイプは過去に何度か使ったことがある。使い心地は悪くはないが、なにか面白味に欠ける気がした。ノートブックに面白味を求める自分に疑問を感じながらも、次から次にノートブックを手に取っては、パラパラとページで弧を描いた。小さな風がおこって、前髪を遊ばせた。

“欲しいものが見つからない”。ノートブックを買う意欲が、あきらめの色に塗りつぶされていく。もうこのアクションを何度も繰り返している。そしていつものように、レジの横にある憧れの万年筆を一目見て店を出ていこう、と彼はおもっている。

 

8

波の延長上にある風景。

海からあがった後はいつもそうなのだ。あるはずもない水の抵抗を感じながら歩いている。生あたたかい風に背中を押されて、木のドアをあける。カウンターには、艶のある髪を横分けにした男と、赤いサマードレスを着たマッシュルームカットの女が座っている。他に客はいない。バーテンダーが振るシェーカーだけが鳴っている。

恋人たちは何も語らない。時おり女がひざの上に抱いたぬいぐるみを「見て」と男に目配せしては、にこりと微笑み合うだけだった。女はぬいぐるみ、という年齢はもちろんとうに過ぎていた。ピンボール台のガラス面は、夕陽のオレンジ色で染まっている。

完璧に敷き詰められたふたりの空気に、ひび割れをつくってしまうのはわかっていたが、僕はアルコールを注文した。恋人たちは催眠術から覚めたように顔を上げて、ぼんやりとカウンターの中を眺めている。

 

7

薬のランチボックス。

木でできた救急箱を開けると、ほのかにバンドエイドの匂いがした。小さくて四角い空間に、薬たちはサンドウィッチやプチトマトのように行儀良く佇んでいる。真っ白な包帯は密やかに丸まり、オレンジ、グリーン、イエローのカプセルは風邪薬や頭痛薬。それらは色彩も美しく、透明のビンや長方形のパッケージに眠っている。細長い銀色のピンセットは、一度も使われた形跡がない。うちの家族はあまり薬を必要としていないようだった。口の中から出した人差し指の血は、いつの間にか止まっていた。木の蓋をゆっくりと閉じる。遠くで電話が鳴っている。私はそっと息をひそめている。

6

白いボールと惑星。

夕方がいよいよ終わりに近づき、夜が始まりそうな時間、彼は友達とキャッチボールをしている。薄暗い空間にボールが一瞬見えなくなるから、取りにくくてしょうがない。相手が投げた高めのボールは、グローブをかすめて草むらまで飛んでいってしまった。「わりぃ!」と叫ぶ友達の声に、片手を上げて(大丈夫!)と合図をすると、くるりと向きをかえ走り出す。

草むらに入ると長い葉っぱが、半ズボンのふくらはぎをチクチクと刺してくる。湿った土の匂いが鼻の奥に届く。白いボールはなかなか姿をあらわさない。顔をあげると、世界は真っ黒と深いグレーでできていた。その瞬間、彼は“たったひとり”だと感じた。

5

彼女の印象について。

ティールームと名のつくところで、僕たちは向かい合って座っている。彼女は初めて見た時の方が、綺麗だと思った。髪の毛が風に吹かれていて、手でおさえながらしゃべっていたのがよかった。いま、あらためて正面から見ると、少し違う気がしてくる。とるに足りない近況を報告しあった頃、糊のきいた白いエプロンをしたウェイトレスが、飲み物を運んできた。銀の盆から2人分のソーダ水が置かれる。グラスの淵には小さくカットされたレモンが刺してある。ストローはグリーンのストライプだ。彼女はゆっくりとグラスを手に持ち、ストローからソーダ水を飲んだ。その瞬間、彼女は動いている時の方が美しいんだとわかった。

4

さっきまであったもの。

ハサミの先端が、ひんやりと額の上をすべっていく。目を閉じていてもあふれる銀色がまぶしい。切り落とされた毛先が、頬にくっついているのを感じる。美容師がやわらかな刷毛で、それらをはらってくれる。ゆっくりと目をあけると、眠そうな自分と目があう。床には髪の毛が、思ったよりたくさん散っていた。いつのことだったか。深夜タクシーの中で自分の爪を噛み、そっと窓から捨てたことがあった。(薄い三日月のような爪だった)さっきまで自分の一部だったものが、もう自分のものでなくなっていくんだ。あの爪は、どこへいったのだろう。そしてこの髪の毛は、どこへいくのだろう。

3

ひとりテレビ最高な状況。

午後3時、ドラマの再放送を観ながらドーナツを食べている。ひと袋5個入りで、スーパーマーケットから買ってきたもの。たまごの味がしてちょっと固くて、表面には砂糖がまぶしてある。

学校の宿題も、ママから頼まれたリビングの掃除も、ボーイフレンドへのメッセージも、すべてを放棄してテレビの画面に釘付けになっている。コマーシャルのすきにイエローラベルの紅茶をいれる。ストレートで飲む。ドーナツ、紅茶、ドーナツ。それらを交互で味わう。

「絶対にあいつだ」。犯人が誰であるかをひとりつぶやく。自分の声が予想以上に部屋に響いて、少し驚く。窓に目をやると、グレーの空に大きな雲がものすごい勢いで移動している。ドーナツはいつの間にか3個も食べていた。
ドラマの中でやっぱりあの男が、紅茶の中に毒を入れている。

2

ブラウスがクリーニングの旅へ出る。

クリーニング店の自動ドアがあくと、洗剤の残り香とビニールの匂いに迎え入れられた。白いカウンターに、シルクのブラウスを一枚置く。お店の女性は、ブラウスを目の高さまで持ち上げると「こちらはドライクリーニングになります」と言った。ブラウスは銀色のワイヤーでできた大きなカゴに入れられ、ドライクリーングをする衣類として分類された。

フィフティーズの曲が聴こえている。この店ではいつも小さくラジオがかかっている。天井には細いレールが仕込んであって、シャツ、ワンピース、スラックス、季節外れのコートなどが、透明のビニールをまとって規則正しく吊るされている。とても美しい風景だ。

女性は仕上がりの日をカーボン用紙にボールペンで書き、控えを切って自分に渡した。すべてが濁りのない事務的なやりとりだった。

1

エレヴェーター・マニアの視線。

銀色のドアが開く。

ミルクティー色のハイヒールで、右足から乗り込む。ピンクのネイルを施した指は、ロビー階のボタンを押す。外国人マダムのあまい香水が、かすかに残っている。古くて広いエレヴェーターは、ゆっくりと下降していく。木づくりの壁はていねいに磨き上げられており、落ち着いた輝きを放っている。ボタンは丸く飛び出していて、階数を示す数字のフォントは固めのゴシックだ。天井からはあたり障りのない、エレヴェーター・ミュージックが聞こえている。足元の赤い絨毯には、ホテルのロゴマークが描かれている。このエレヴェーターは、ほぼ彼女の好みを満たしていた。すべては上手く事が運びそうだ。彼女の予感はたびたび的中するのだ。

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電車は遅れておりますが

ふわっと映像が浮かんで、
こころが6.6グラム(当社比)軽くなる。
ワンシチュエーションでつづる、
シラスアキコのショートストーリー。

自分がジブンにしっくりくる感じの時は、気分がいい。
こころと身体が同じ歩幅で歩いているのがわかる。
いつもこんな感じで生きていきたい。

でも、かなりの確率でイライラと聞こえてくる
「お急ぎのところ、電車が遅れて申し訳ございません」。

そんな時は“ここじゃないどこか”に、
ジブンをリリースしてしまおう。
きっと気持ちの針が、真ん中くらいに戻ってくるから。

シラスアキコ Akiko Shirasu
文筆家、コピーライター Writer, Copywriter

広告代理店でコピーライターとしてのキャリアを積んだ後、クリエイティブユニット「color/カラー」を結成。プロダクトデザインの企画、広告のコピーライティング、Webムービーの脚本など、幅広く活動。著書に「レモンエアライン」がある。東京在住。

color / www.color-81.com
レモンエアライン / lemonairline.com
contact / akiko@color-81.com

◎なぜショートストーリーなのか
日常のワンシチュエーションを切り抜く。そこには感覚的なうま味が潜んでいる。うま味の粒をひとつひとつ拾い上げ文章化すると、不思議な化学反応が生まれる。新たな魅力が浮き上がってくる。それらをたった数行のショートストーリーでおさめることに、私は夢中になる。

イラストレーション
山口洋佑 / yosukeyamaguchi423.tumblr.com