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建築士に伝えたいこと。

彼は家を建てるため、建築士と打ち合わせをしている。そして彼はさっきから同じ言葉を繰り返している。キッチンとキッチンカウンターがあれば、他は何もいらないと。建築士はベッドルームやリビング、クローゼットも必要ですよと反論するが、彼はすべてをキッチンで済ませるので大丈夫と一歩もひかない。こんなお客さんは初めてだ、と小声で建築士が漏らした。(彼にも聞こえた)キッチンでサンドウィッチを作り、煙草を吸い、ウイスキーを飲む。キッチンで手紙を書き、新聞を読み、考え事をする。キッチンで毛布に包まり眠りにつく。生活なんていらない。いや、これが彼の理想の生活なのだ。無言の時が続いた。それなら、とびきりユニークなキッチンを作りましょう。新時代のキッチン、幕開け!というような、と建築士は明るい表情で提案した。彼は首を横に振り、できるだけシンプルなキッチンがいいです、とこたえた。彼と建築士の考えは、水星と火星くらい離れていることだけがわかった。

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夕陽の歩幅。

学校の帰り道、橋の上の真ん中あたりにくると、少年ふたりはどちらからともなく足を止める。そしてしばらくの間、ジョークを言い合っては笑い転げ、この時の終わりを惜しんでいる。一本の冷たい風が、白い団地の方から吹いてくる。

ふたりは橋を渡りきると、別々の道を歩き出す。「バイバーイ!」「バイバーイ!」後ろを振り返らずに叫びあう。やまびこのように響きあう。ありったけの声を出し続ける。それでも、相手の気配はだんだんと小さくなっていく。最後は、森がくっきりと浮かんだオレンジの空に、ゆらゆらと吸い込まれていった。いよいよ夜が降りてくる。

 

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魅力の量り売り。

その店はかつて、肉屋だった場所をリノベーションしたのだった。壁を真っ白に塗り、木のカウンターを作り、赤いドアをしつらえて、青いカナリアを飼った。透明の瓶にはいろんな“魅力”が入っていて、1グラムから量り売りをしている。

嵐の午後、若い娘が“小悪魔”を20グラム欲しいと訪ねてきた。店の主人は「15グラムくらいにしときな。小悪魔が悪魔になっちまう。」と言った。「そんなことない、大丈夫。どうしても今夜、小悪魔にならなくちゃいけないの。」と娘。主人は “小悪魔”を10グラムに、こっそりと“素直”を10グラム足して渡した。いつの間にか風はやんでいた。カナリアが美しい声で鳴いた。

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人はどこまでプレーンになれるか。

シェフの気まぐれサラダは、いつもベビーリーフとゆで卵と生ハムが盛られたもので、シェフの気まぐれはまったく入っていないし。本日のキッシュは、ほうれん草とベーコンのキッシュと一年じゅう決まっていたけれど。彼は今日もこの喫茶店に来てしまった。そして「シェフの気まぐれサラダと、本日のキッシュと、ホットコーヒーをください。」と、正式名称をウエイトレスに告げるのであった。

テーブルの脇には観葉植物が見事に育っていて、葉っぱの艶はまるでレプリカのような勢いがあり、彼は毎回葉っぱを手で触り確認する癖があった。(そして今日も確認した)BGMはだいたいポール・モーリアだった。氷が3個浮かんだ水を口に含む。料理が来るまでのあいだ、彼は午後の仕事の手順を考えることにした。BGMがビートルズに変わっていることに、しばらくして気づく。シェフ(というか喫茶店の主人)は、有線のチャンネルを入れ間違えたのだろうか。斜め前のご婦人がコップの水をこぼした。氷が床に落ちてキラキラと輝いている。

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電車は遅れておりますが

ふわっと映像が浮かんで、
こころが6.6グラム(当社比)軽くなる。
ワンシチュエーションでつづる、
シラスアキコのショートストーリー。

自分がジブンにしっくりくる感じの時は、気分がいい。
こころと身体が同じ歩幅で歩いているのがわかる。
いつもこんな感じで生きていきたい。

でも、かなりの確率でイライラと聞こえてくる
「お急ぎのところ、電車が遅れて申し訳ございません」。

そんな時は“ここじゃないどこか”に、
ジブンをリリースしてしまおう。
きっと気持ちの針が、真ん中くらいに戻ってくるから。

シラスアキコ Akiko Shirasu
文筆家、コピーライター Writer, Copywriter

広告代理店でコピーライターとしてのキャリアを積んだ後、クリエイティブユニット「color/カラー」を結成。プロダクトデザインの企画、広告のコピーライティング、Webムービーの脚本など、幅広く活動。著書に「レモンエアライン」がある。東京在住。

color / www.color-81.com
レモンエアライン / lemonairline.com
contact / akiko@color-81.com

◎なぜショートストーリーなのか
日常のワンシチュエーションを切り抜く。そこには感覚的なうま味が潜んでいる。うま味の粒をひとつひとつ拾い上げ文章化すると、不思議な化学反応が生まれる。新たな魅力が浮き上がってくる。それらをたった数行のショートストーリーでおさめることに、私は夢中になる。

イラストレーション
山口洋佑 / yosukeyamaguchi423.tumblr.com