駆け抜ける方向。
美術館を出ると、雨は大降りになっていた。目の前には広い公園が続いていて、ふたりはどうするか一瞬戸惑ったが、顔を見合わせると同時に走り出した。男性は女性の腕を軽く持っていたが、それも勢いでふりほどくかたちになった。真っ直ぐに刺す雨は、女性のピーコートの色を変えていく。遊園地のような悲鳴が、いつしか弾ける笑い声になっていく。水たまりを飛び越えずに、ジャブジャブと鳴らした。森の匂いが深々と立ちあがる。大きな木の下に着いたときは、ふたりは恋人の一歩目を踏み入れたらしかった。
美術館を出ると、雨は大降りになっていた。目の前には広い公園が続いていて、ふたりはどうするか一瞬戸惑ったが、顔を見合わせると同時に走り出した。男性は女性の腕を軽く持っていたが、それも勢いでふりほどくかたちになった。真っ直ぐに刺す雨は、女性のピーコートの色を変えていく。遊園地のような悲鳴が、いつしか弾ける笑い声になっていく。水たまりを飛び越えずに、ジャブジャブと鳴らした。森の匂いが深々と立ちあがる。大きな木の下に着いたときは、ふたりは恋人の一歩目を踏み入れたらしかった。
洗いあがったシーツはたっぷりと水分を含んでいて、重たさがあった。背丈くらいある銀色のバーに、放り投げるように覆い被せる。空はどこまでも抜けていて、太陽の方向は眩しくて直視できない。風が吹くたび、シーツはじゃれるように自分の顔を丸め込む。冷たいのに。赤みがさした葉っぱの上に一羽のスズメがとまり、首をかしげている。スズメは無表情で(もちろん)気持ちは読み取れなかった。今夜は最低でも嬉しいことがふたつある。ひとつは、太陽の直火で仕上げたシーツに飛び込むこと。もうひとつは、ねこのまねをして眠ること。
あぁ服がない。服がないから買いに行こう、と思った瞬間、別の考えが浮かぶ。彼女はクローゼットの中をひっくり返して、着られる服が本当にないのかを点検してみることにした。今はボーダーの気分じゃないし、今は黒いタートルネックの気分じゃないし、今はチェックのワンピースの気分じゃないし、今はライダースジャケットの気分じゃない。去年まで喜んでコーディネートしていた服が、ことごとく気分じゃなくなっている。大きな服の山ができてしまった。予想通りだった。自分は何かが変わってしまったのだろうか。これまで好きだったものが、味のなくなったガムみたいに何も感じなくなっている。一番奥から、グレーのVネックセーターがでてきた。一度も袖を通したことのないものだった。今年の春先、そうあれは英会話レッスンの初日、英語を自由にあやつる自分を想像して、嬉しくて衝動買いしたものだった。しかし英会話レッスンは3回分のチケットを使い切ったところでフェイドアウトし、グレーのVネックセーターは記憶の引き出しから消えていた。ふーっ。ぺたりと座り込む。時間はビュンビュン、新幹線からの風景のように流れていく。彼女は服を買いに行くことをやめた。このグレーのVネックセーターから、もう一度始めようとおもった。大げさかもしれないけれど、もう一度人生をやり直そうと。そして英会話も。
細い手首に巻き付いた狂った腕時計を信用しないかわりに、彼女の時間に対する考え方は彼女自身を幸福にした。こうして地下鉄に揺られているあいだも、冷蔵庫に眠っている卵は確実に劣化がはじまっており、つり革につかまった自分の美しい腕も、数十年後には無数の線が生まれてくるのだ。万歳。時は進む。実験は続く。(愉快な実験)この瞬間も終わり、終わりが続いていく。真っ暗な5時15分に目覚めたとき、朝なのか夕方なのかわからなかった。床に落とす足裏はひんやりと冷たく、カーテンから覗く空には星があった。テレヴィをつけるのをためらったのは、ニュースキャスターの様子が“地球は今何時か”を伝えてしまうから、そのままにしておいたのだ。時間そのものと遊んだ。(回想)どんな時間でも、手つかずで新品だから彼女には興味深かったのだ。まつ毛が濡れた赤ん坊と目があう。もうすぐ駅に着く。
彼は赤い傘をさした彼女のうしろを歩いている。駆ければ5秒で追いつく距離を保ちながら歩いている。草をなでる雨音が、世界を透明にしていく。彼はひとりでいる彼女を見るのが好きだった。教室の中で笑っているときとはまったく違う。そっと息をしながら、考えごとをしているような。そしていま、キンモクセイのあまい匂いを一緒に通過している。彼女は彼に気づかないまま、宇宙でふたりきりになっている。
ふわっと映像が浮かんで、
こころが6.6グラム(当社比)軽くなる。
ワンシチュエーションでつづる、
シラスアキコのショートストーリー。
自分がジブンにしっくりくる感じの時は、気分がいい。
こころと身体が同じ歩幅で歩いているのがわかる。
いつもこんな感じで生きていきたい。
でも、かなりの確率でイライラと聞こえてくる
「お急ぎのところ、電車が遅れて申し訳ございません」。
そんな時は“ここじゃないどこか”に、
ジブンをリリースしてしまおう。
きっと気持ちの針が、真ん中くらいに戻ってくるから。
広告代理店でコピーライターとしてのキャリアを積んだ後、クリエイティブユニット「color/カラー」を結成。プロダクトデザインの企画、広告のコピーライティング、Webムービーの脚本など、幅広く活動。著書に「レモンエアライン」がある。東京在住。
color / www.color-81.com
レモンエアライン / lemonairline.com
contact / akiko@color-81.com
◎なぜショートストーリーなのか
日常のワンシチュエーションを切り抜く。そこには感覚的なうま味が潜んでいる。うま味の粒をひとつひとつ拾い上げ文章化すると、不思議な化学反応が生まれる。新たな魅力が浮き上がってくる。それらをたった数行のショートストーリーでおさめることに、私は夢中になる。
イラストレーション
山口洋佑 / yosukeyamaguchi423.tumblr.com