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黒い家の男。

黒い家の男は、自分の才能の凄さを知っていた。

それと同時に、自分と似たような才能を持つ人間がいることを恐れていた。

だから、世の中に触れず、ひとと会わず、いっさいの情報から逃げて暮らしていた。

 

腹が減れば魚を釣り、畑の野菜を食べ、雨水を飲んだ。

黒い家の男の才能は、年々衰えるどころかますますみなぎっていった。

 

しかし、黒い家の男はうっかり世の中と接触する機会をつくってしまった。

世の中に自分と似たような才能を持つ人間が、けっこういることを知ってしまった。

 

黒い家の男は、黒い家の隅で震えていた。

才能がみすぼらしくし変形してしまった。

もう二度と開花することはないと絶望した。

 

黒い家の男は5日間眠り続け、6日目の朝、目をあけた。

喉も渇いているし、腹も減っていたが、

そんなことより、今すぐ自分の才能に会いたくなった。

(自分の才能と似ている人間がいることなど、もうどうでもよくなっていた。)

 

*「電車は遅れておりますが」は毎週火曜日に更新しています。

 

93

月の表面にタッチする方法。

手ぶらで行ってください。

助走をつけて思いっきりジャンプしてみてください。

飛び上がった瞬間に空気を漕ぐのがコツです。

2、3回漕ぐとグンと数メートル宙に浮きます。

自転車のペダルを漕ぐようなイメージです。

(はいその調子です)

そのまま夜空を登っていくと、大きな雲が見えてきます。

今度は平泳ぎの要領に変えてください。

スイスイと月に向かっていきます。

“こんな感じでいいのかな”と途中不安になるかと思いますが、

スイスイをやめないでください。

月は急に目の前にあらわれます。

表面にはそっとタッチしてください。

(きっと懐かしい気持ちがするとおもいます)

ぜひ、月にひとこと言葉をかけてみてください。

 

*「電車は遅れておりますが」は毎週火曜日に更新しています。

 

92

こころのロードムービー。

ずっと歩いている。

冷たい空気をかきわけながら、歩いている。

悩みごとと向き合うために、歩いている。

大きな雲はじっくりと移動している。

自転車の高校生はびゅんと追い越していく。

悩みごとを真剣に悩みたかったのに、

悩みごとは頭のてっぺんから降りてきて、

胸のあたりを通過して、

いまは両手の指先からこぼれ落ちそうになっている。

あんなに悩んでいたのに、消えそうになっている。

何の解決もしていないのに、無くなりそうになっている。

今は生きているじぶんだけを感じている。

ぐんぐん前へ進むじぶんの肉体だけを感じている。

 

*「電車は遅れておりますが」は毎週火曜日に更新しています。

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今日の仕上げはマルゲリータ。

目覚まし時計を床に落としたまま、はっと起きたら会議に遅れて、私の番でコピー機は壊れてしまうし、作った書類は計算まちがい、クリップを指に刺してしまうし(うっ!)、自販機から転がってきたのはぬるいウーロン茶だった。(あつあつが飲みたかった)でもね、18時のベルが鳴ったらくちびるにイチゴ色のグロス塗って、ミルクティー色のエナメルブーツに履き替えて、信号のギリギリ青を渡りきり、にんまり笑顔の恋人にゴール。トマトとチーズの大合唱、マルゲリータピザにゴール。とろりチーズを追いかけて、口の中がマルゲリータ。(あちっ!)マルゲリータで私の今日は大勝利。マルゲリータは私を救う。

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電車は遅れておりますが

ふわっと映像が浮かんで、
こころが6.6グラム(当社比)軽くなる。
ワンシチュエーションでつづる、
シラスアキコのショートストーリー。

自分がジブンにしっくりくる感じの時は、気分がいい。
こころと身体が同じ歩幅で歩いているのがわかる。
いつもこんな感じで生きていきたい。

でも、かなりの確率でイライラと聞こえてくる
「お急ぎのところ、電車が遅れて申し訳ございません」。

そんな時は“ここじゃないどこか”に、
ジブンをリリースしてしまおう。
きっと気持ちの針が、真ん中くらいに戻ってくるから。

シラスアキコ Akiko Shirasu
文筆家、コピーライター Writer, Copywriter

広告代理店でコピーライターとしてのキャリアを積んだ後、クリエイティブユニット「color/カラー」を結成。プロダクトデザインの企画、広告のコピーライティング、Webムービーの脚本など、幅広く活動。著書に「レモンエアライン」がある。東京在住。

color / www.color-81.com
レモンエアライン / lemonairline.com
contact / akiko@color-81.com

◎なぜショートストーリーなのか
日常のワンシチュエーションを切り抜く。そこには感覚的なうま味が潜んでいる。うま味の粒をひとつひとつ拾い上げ文章化すると、不思議な化学反応が生まれる。新たな魅力が浮き上がってくる。それらをたった数行のショートストーリーでおさめることに、私は夢中になる。

イラストレーション
山口洋佑 / yosukeyamaguchi423.tumblr.com