56

自転車までの距離は遠かった。

日が落ちるのを待つと、彼は今日もひとり自転車に乗る練習を始めるのだった。(このことは親友にも内緒にしている)サドルにまたがり、つま先で地面を蹴って前へ進む。ペダルに足を置こうとしても、なかなかタイミングが上手くいかない。地球から身体がふっと浮いてしまう怖さといったらなかった。

ようやく右足でペダルを踏み込む。「よし!」と思った瞬間に、ハンドルは左右にグラグラと揺れ、派手に自転車ごと倒れてしまう。その場に座り込んで膝小僧をさする。血は出ていなかった。公園の木々は黒々としたシルエットに変わっていた。まぁまぁな絶望感が彼の中で広がっていく。

55

皿洗いドリーマー。

彼女はシンクの前に立ち食器の後片づけをはじめた。スポンジに洗剤を含ませギュッと握り締めると、泡は生き物のように成長した。透明のワイングラス、木製のサラダボール、白い磁器の皿を磨く。小さなシャボン玉が、次から次に浮かび上がる。シャボン玉どうしがぶつかりあって、大きなシャボン玉になる。エプロンをした彼女が、プルンと映っている。シャボン玉は、キッチンの天井までいっぱいになった。彼女は食器から手をはなし、その様子を見上げている。

54

野菜を狩りにいく。

喉も身体も水分を欲しがっている。いまはゴクゴクと飲み干す冷たい水ではなく、シャリっと噛みつくと口の中でプシュッと弾ける新鮮な野菜を欲しがっている。彼女はスーパーマーケットに入り、赤いカゴを掴みとった。

最初に目があったのは春キャベツ。やわらかそうな葉っぱは、密やかな夢をくるんでいるようだ。にょっきり芽を出してジャーン!とデビューしたアスパラガスは、アイドルみたい。セロリのフサフサの葉っぱは、オイルでさっと炒めてモリモリ食べてやろう。パンとハリのある元気なニンジンは、ポリポリ片手で味わおう。

BGMが“蛍の光”に変わったことも気づかず、彼女は野菜をカゴに収めていく。目は爛々と輝き、口角は少しだけ上がっている。

53

十三番目の女。

映画監督は傷あと治しクリームの雑誌広告に出ていた女性が誰であるかは知らなかったが、強烈に惹かれるものがあった。彼女はストライプの水着を着てハンモッグに横たわり、作り笑いをしていた。手にはパイナップルが刺さった飲み物を持ち、長い脚のラインに沿うように“去年の傷とはさようなら”というキャッチフレーズがイタリア語のタイポグラフィで描かれていた。彼女の瞳はビー玉みたいに大きく濡れ濡れとしていた。人間離れした魅力があった。映画監督は、動いている彼女をどうしても見てみたくなった。今日のオーディションの目的はひとつ。彼女に会うためだった。ドアが開いた。十三番目に現れた彼女は、ゆっくりと映画監督の前に立った。

 

52

初夏のリズムは少し気だるい。

緑色の風が身体の上を通り過ぎる。何度も読み返している本の活字は、太陽のヒカリでほとんどぼやけている。Tシャツの背中をチクリと刺す芝生が気になるのに、寝返りを打つことさえも面倒だ。さっと起き上がって真っ白なソフトクリームを買いにいきたいけれど、もう行動力というものが残っていない。雲を眺めているとますますソフトクリームが食べたくなるので、しばらく目をとじることにした。

 

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電車は遅れておりますが

ふわっと映像が浮かんで、
こころが6.6グラム(当社比)軽くなる。
ワンシチュエーションでつづる、
シラスアキコのショートストーリー。

自分がジブンにしっくりくる感じの時は、気分がいい。
こころと身体が同じ歩幅で歩いているのがわかる。
いつもこんな感じで生きていきたい。

でも、かなりの確率でイライラと聞こえてくる
「お急ぎのところ、電車が遅れて申し訳ございません」。

そんな時は“ここじゃないどこか”に、
ジブンをリリースしてしまおう。
きっと気持ちの針が、真ん中くらいに戻ってくるから。

シラスアキコ Akiko Shirasu
文筆家、コピーライター Writer, Copywriter

広告代理店でコピーライターとしてのキャリアを積んだ後、クリエイティブユニット「color/カラー」を結成。プロダクトデザインの企画、広告のコピーライティング、Webムービーの脚本など、幅広く活動。著書に「レモンエアライン」がある。東京在住。

color / www.color-81.com
レモンエアライン / lemonairline.com
contact / akiko@color-81.com

◎なぜショートストーリーなのか
日常のワンシチュエーションを切り抜く。そこには感覚的なうま味が潜んでいる。うま味の粒をひとつひとつ拾い上げ文章化すると、不思議な化学反応が生まれる。新たな魅力が浮き上がってくる。それらをたった数行のショートストーリーでおさめることに、私は夢中になる。

イラストレーション
山口洋佑 / yosukeyamaguchi423.tumblr.com