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わたしはアシスタント。

エレヴェーターよりも階段の方が早いわ、と目で合図をおくったボスは、待ち人の列からはずれ薄暗い階段を登りだした。彼女も後に続く。安全ピンくらい細いヒールはボスのくるぶしを支え、階段を上がるたびにアキレス腱がくっきりと浮かびあがる。この後のミーティングが大荒れになることは、容易に想像できた。女性ふたりのヒールの音が揃って響きだしたから、彼女はわざとタイミングをずらした。今はアシスタントだけれど、このボスよりももっとしなやかに、もっとチャーミングに輝く日がくることを彼女は知っている。遠くでサイレンが鳴っている。

28

魅力の量り売り。

その店はかつて、肉屋だった場所をリノベーションしたのだった。壁を真っ白に塗り、木のカウンターを作り、赤いドアをしつらえて、青いカナリアを飼った。透明の瓶にはいろんな“魅力”が入っていて、1グラムから量り売りをしている。

嵐の午後、若い娘が“小悪魔”を20グラム欲しいと訪ねてきた。店の主人は「15グラムくらいにしときな。小悪魔が悪魔になっちまう。」と言った。「そんなことない、大丈夫。どうしても今夜、小悪魔にならなくちゃいけないの。」と娘。主人は “小悪魔”を10グラムに、こっそりと“素直”を10グラム足して渡した。いつの間にか風はやんでいた。カナリアが美しい声で鳴いた。

25

あらかじめ用意されている、いいこと。

洗いあがったシーツはたっぷりと水分を含んでいて、重たさがあった。背丈くらいある銀色のバーに、放り投げるように覆い被せる。空はどこまでも抜けていて、太陽の方向は眩しくて直視できない。風が吹くたび、シーツはじゃれるように自分の顔を丸め込む。冷たいのに。赤みがさした葉っぱの上に一羽のスズメがとまり、首をかしげている。スズメは無表情で(もちろん)気持ちは読み取れなかった。今夜は最低でも嬉しいことがふたつある。ひとつは、太陽の直火で仕上げたシーツに飛び込むこと。もうひとつは、ねこのまねをして眠ること。

24

服パトロール。

あぁ服がない。服がないから買いに行こう、と思った瞬間、別の考えが浮かぶ。彼女はクローゼットの中をひっくり返して、着られる服が本当にないのかを点検してみることにした。今はボーダーの気分じゃないし、今は黒いタートルネックの気分じゃないし、今はチェックのワンピースの気分じゃないし、今はライダースジャケットの気分じゃない。去年まで喜んでコーディネートしていた服が、ことごとく気分じゃなくなっている。大きな服の山ができてしまった。予想通りだった。自分は何かが変わってしまったのだろうか。これまで好きだったものが、味のなくなったガムみたいに何も感じなくなっている。一番奥から、グレーのVネックセーターがでてきた。一度も袖を通したことのないものだった。今年の春先、そうあれは英会話レッスンの初日、英語を自由にあやつる自分を想像して、嬉しくて衝動買いしたものだった。しかし英会話レッスンは3回分のチケットを使い切ったところでフェイドアウトし、グレーのVネックセーターは記憶の引き出しから消えていた。ふーっ。ぺたりと座り込む。時間はビュンビュン、新幹線からの風景のように流れていく。彼女は服を買いに行くことをやめた。このグレーのVネックセーターから、もう一度始めようとおもった。大げさかもしれないけれど、もう一度人生をやり直そうと。そして英会話も。

14

夏の日の願いごと。

立ったままの姿勢で、彼は自転車のペダルを漕いでいる。このまま最後まで坂を登りきれたら、夏休みの登校日を待たずにあの娘と会える。そんな密かな“願かけ”をしながら、長い坂を上っていく。蝉の合唱が大音量で響き渡る。自分の荒々しい息づかいが規則正しく重なっていく。

さっきから頬に流れる汗がわずらわしい。左肩を頬まで引き上げ、ティーシャツの袖で汗を拭おうと試みる。自転車はバランスを崩し右左によろけ、ついに彼は地面に足をついてしまった。あと少しで坂の頂上だったのに。身体じゅうから吸い上げて、ため息。むくむくと育った入道雲が、気落ちした少年を眺めている。あの娘はもう真っ黒に日焼けしているのだろうか。彼は彼女の細い腕の感じを、ぼんやりと思い浮かべてみる。

 

13

ラウンジに必要なひとつかふたつのこと。

彼には荷物がない。仕事場もない家もない。

ホテルのラウンジがあれば、彼の生活のほとんどはまかなえる。キュウリとハムが挟まった薄いサンドウイッチと、ブラックコーヒーがあれば生きていける。ラウンジには少々条件がある。天井はどこまでも高くなければならない。客がまばらでないといけない。カトラリーが重なる音や、談笑の声が遠くからかすかに聞こえる感じがいい。音楽はいらない。

プールで濡れた髪をゴムで縛ったティーンエイジャーがふたり、フロントを横切っていくのが見える。彼女たちはそれぞれ、濃いオレンジと薄いブルーのアイスキャンディーをなめている。みずみずしい肢体を持つふたりは、無意識のうちにアイスキャンディーさえもカラーコーディネートしているらしい。自分たちが美しいことを充分に知っており、また惜しげもなく魅了することも大切な暇つぶしのひとつに違いない。

白い麻のスーツを着込んだ紳士が、彼のもとへ近づいてくる。脇には茶色の封筒を抱えている。その中に何が入っているのかは、透けて見えるようだった。紳士は無表情で彼の前に腰掛けた。今日の仕事はこれで終了だ。

 

 

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遠くの森はどんなあじ。

ぐらぐらとたぎる湯の中に、大小さまざまにカットされたブロッコリーを投入する。やんちゃに踊っているそれらは、深いグリーンから明るいグリーンに変わる。この一瞬を見逃してはならない。素早くザルにあげる。白い湯気が逃げる。平らな皿に豊かに盛り、岩塩を少々とオリーブオイルをまわす。テーブルに座る。ちょうど目の高さに森が見える。“緑を見ながら食事ができる”のが、この部屋を決めた理由だった。ブロッコリーは突然舞台に押し出されたような、キョトンとした顔つき。フォークで口に運ぶ。一番大きな木を見ながら、ゆっくりと咀嚼する。あまいあじがした。からだのすみずみまでゆき渡っていく。私は白いアパートメントで森を食べている。

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電車は遅れておりますが

ふわっと映像が浮かんで、
こころが6.6グラム(当社比)軽くなる。
ワンシチュエーションでつづる、
シラスアキコのショートストーリー。

自分がジブンにしっくりくる感じの時は、気分がいい。
こころと身体が同じ歩幅で歩いているのがわかる。
いつもこんな感じで生きていきたい。

でも、かなりの確率でイライラと聞こえてくる
「お急ぎのところ、電車が遅れて申し訳ございません」。

そんな時は“ここじゃないどこか”に、
ジブンをリリースしてしまおう。
きっと気持ちの針が、真ん中くらいに戻ってくるから。

シラスアキコ Akiko Shirasu
文筆家、コピーライター Writer, Copywriter

広告代理店でコピーライターとしてのキャリアを積んだ後、クリエイティブユニット「color/カラー」を結成。プロダクトデザインの企画、広告のコピーライティング、Webムービーの脚本など、幅広く活動。著書に「レモンエアライン」がある。東京在住。

color / www.color-81.com
レモンエアライン / lemonairline.com
contact / akiko@color-81.com

◎なぜショートストーリーなのか
日常のワンシチュエーションを切り抜く。そこには感覚的なうま味が潜んでいる。うま味の粒をひとつひとつ拾い上げ文章化すると、不思議な化学反応が生まれる。新たな魅力が浮き上がってくる。それらをたった数行のショートストーリーでおさめることに、私は夢中になる。

イラストレーション
山口洋佑 / yosukeyamaguchi423.tumblr.com