エスプレッソ邸に住むクロックマダムは、長く仕えた使用人のマカデミアが亡くなってから、すっかり外出をしなくなった。絶世の美女と謳われたクロックマダムは、女優を30歳で引退。いくつかの結婚と、ありあまる資産の使い道以外、世間の話題にのぼることはなかった。好き嫌いが激しい彼女は、新たな使用人たちとは口をきかなかったが、今朝は特別だった。「ドレスの裾、アイロンかけてちょうだい!」「香水、新しいの買ってきて!」「前菜にあわせるシェリー酒はあるの?」大きな声が立て続けに響いている。なぜなら今日は、銀幕の中で共演を重ねたクロックムッシュが訪ねてくるのだ。まさに30年ぶりの再会。クロックマダムは、一度だけクロックムッシュからプロポーズをされたことがある。映画のセットの影でこっそりと。でも、彼女は胸をときめかせながらも断った。(とりあえず最初は断る、をルールにしていた)
街の灯りがともる頃、エスプレッソ邸の呼び鈴が鳴った。クロックマダムは、額装してある女優時代の写真を見て深呼吸をした。瞳はみずうみの澄んだ青、長いまつ毛は孔雀のように広がり、口もとはもぎたてのチェリー。“見つめられると2秒で天国行き”という謳い文句が流行ったものだ。もし、クロックムッシュが30年もの想いを彼女に告げたら。今度こそプロポーズを受けよう。彼女は決心をした。
使用人から居間へ通されたクロックムッシュを、彼女はぴったり10分間待たせる。(遅れて登場するのをルールにしていた)ドアをあけると、窓の外を眺めているクロックムッシュがいた。今も第一線で俳優を続けている彼の魅力は、まったく変わっていない。いや歳月を重ねた分、その存在感は深く濃く伝わってくる。クロックムッシュは感動を隠せない表情に、笑顔がこぼれた。「お変わりありませんね、お母様!」時の流れは残酷だ。この日のために磨き上げたクロックマダムを目の前に、彼は彼女の母親であると勘違いをしたのだった。
クロックマダムは、一瞬で絶望の瞳を懐かしさの色に変化させる。「まぁクロックムッシュ!よく来てくださったわ。」そして続けた。「実はね…娘は…残念ながら亡くなったのです。」「クロックマダムが亡くなったった…?」彼は呆然と立ちすくむ。「娘はあなたのことを、ずっと愛していたんですよ。」30年のブランクを感じさせないほど、クロックマダムの演技は完璧であった。fin
*「電車は遅れておりますが」は毎週火曜日に更新しています。