満員電車の山登り。
帰宅ラッシュの地下鉄。人と人のあいだにギューッと挟まれて、身体を半分くらいの薄さにしながら、人差し指と中指でピースサインをつくり、肩にかけたカバンの口になんとか風穴をあける。さぁ、ちょうどカバンの中に手首が入る格好になった。彼女は猛烈にリップクリームを取り出したい。カサついた唇に今すぐうるおいを与えたい。指先に全神経を集中させて、モノの素材を感じとる。これはダイアリー、これはハンカチ、これは鍵。カバンの中が、真っ暗なゴツゴツした岩山の風景に変わる。下に下に指先を降ろしていくと、革のポーチにたどりつく。冷たいジッパーをつまみ横に引く。指先はポーチの中に眠る細い円柱型のリップクリームに到達する。人差し指と中指でリップクリームを挟む。岩の障害物たちをかわしながら、UFOキャッチャーの要領で用心深く上へ上へと引き上げていく。もう少しでカバンからリップクリームが救出されるその瞬間。アーーーーーーッ。地下鉄は大きく前へ揺れ次の駅に止まり、リップクリームは指先から離れ、グランドキャニオンに落ちていった。彼女は深めのため息。地上に上がったらリップクリームを三度塗りしてやろうと心に誓う。
*「電車は遅れておりますが」は毎週火曜日に更新しています。