8

波の延長上にある風景。

海からあがった後はいつもそうなのだ。あるはずもない水の抵抗を感じながら歩いている。生あたたかい風に背中を押されて、木のドアをあける。カウンターには、艶のある髪を横分けにした男と、赤いサマードレスを着たマッシュルームカットの女が座っている。他に客はいない。バーテンダーが振るシェーカーだけが鳴っている。

恋人たちは何も語らない。時おり女がひざの上に抱いたぬいぐるみを「見て」と男に目配せしては、にこりと微笑み合うだけだった。女はぬいぐるみ、という年齢はもちろんとうに過ぎていた。ピンボール台のガラス面は、夕陽のオレンジ色で染まっている。

完璧に敷き詰められたふたりの空気に、ひび割れをつくってしまうのはわかっていたが、僕はアルコールを注文した。恋人たちは催眠術から覚めたように顔を上げて、ぼんやりとカウンターの中を眺めている。

 

7

薬のランチボックス。

木でできた救急箱を開けると、ほのかにバンドエイドの匂いがした。小さくて四角い空間に、薬たちはサンドウィッチやプチトマトのように行儀良く佇んでいる。真っ白な包帯は密やかに丸まり、オレンジ、グリーン、イエローのカプセルは風邪薬や頭痛薬。それらは色彩も美しく、透明のビンや長方形のパッケージに眠っている。細長い銀色のピンセットは、一度も使われた形跡がない。うちの家族はあまり薬を必要としていないようだった。口の中から出した人差し指の血は、いつの間にか止まっていた。木の蓋をゆっくりと閉じる。遠くで電話が鳴っている。私はそっと息をひそめている。

6

白いボールと惑星。

夕方がいよいよ終わりに近づき、夜が始まりそうな時間、彼は友達とキャッチボールをしている。薄暗い空間にボールが一瞬見えなくなるから、取りにくくてしょうがない。相手が投げた高めのボールは、グローブをかすめて草むらまで飛んでいってしまった。「わりぃ!」と叫ぶ友達の声に、片手を上げて(大丈夫!)と合図をすると、くるりと向きをかえ走り出す。

草むらに入ると長い葉っぱが、半ズボンのふくらはぎをチクチクと刺してくる。湿った土の匂いが鼻の奥に届く。白いボールはなかなか姿をあらわさない。顔をあげると、世界は真っ黒と深いグレーでできていた。その瞬間、彼は“たったひとり”だと感じた。

5

彼女の印象について。

ティールームと名のつくところで、僕たちは向かい合って座っている。彼女は初めて見た時の方が、綺麗だと思った。髪の毛が風に吹かれていて、手でおさえながらしゃべっていたのがよかった。いま、あらためて正面から見ると、少し違う気がしてくる。とるに足りない近況を報告しあった頃、糊のきいた白いエプロンをしたウェイトレスが、飲み物を運んできた。銀の盆から2人分のソーダ水が置かれる。グラスの淵には小さくカットされたレモンが刺してある。ストローはグリーンのストライプだ。彼女はゆっくりとグラスを手に持ち、ストローからソーダ水を飲んだ。その瞬間、彼女は動いている時の方が美しいんだとわかった。

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電車は遅れておりますが

ふわっと映像が浮かんで、
こころが6.6グラム(当社比)軽くなる。
ワンシチュエーションでつづる、
シラスアキコのショートストーリー。

自分がジブンにしっくりくる感じの時は、気分がいい。
こころと身体が同じ歩幅で歩いているのがわかる。
いつもこんな感じで生きていきたい。

でも、かなりの確率でイライラと聞こえてくる
「お急ぎのところ、電車が遅れて申し訳ございません」。

そんな時は“ここじゃないどこか”に、
ジブンをリリースしてしまおう。
きっと気持ちの針が、真ん中くらいに戻ってくるから。

シラスアキコ Akiko Shirasu
文筆家、コピーライター Writer, Copywriter

広告代理店でコピーライターとしてのキャリアを積んだ後、クリエイティブユニット「color/カラー」を結成。プロダクトデザインの企画、広告のコピーライティング、Webムービーの脚本など、幅広く活動。著書に「レモンエアライン」がある。東京在住。

color / www.color-81.com
レモンエアライン / lemonairline.com
contact / akiko@color-81.com

◎なぜショートストーリーなのか
日常のワンシチュエーションを切り抜く。そこには感覚的なうま味が潜んでいる。うま味の粒をひとつひとつ拾い上げ文章化すると、不思議な化学反応が生まれる。新たな魅力が浮き上がってくる。それらをたった数行のショートストーリーでおさめることに、私は夢中になる。

イラストレーション
山口洋佑 / yosukeyamaguchi423.tumblr.com