407

ヨルのあこがれ。

どんなに努力したって、ヨルはヒルになれない。ソフトクリームをなめながら横断歩道を渡る高校生や、野菜や肉をたくさん買い込んだ元気なママや、まるい足をバギーにのせた赤ちゃんに会えるヒルがうらやましかった。暗くなるとみんなは家に帰り、窓とカーテンをパタンと閉める。ヨルはさびしかった。でも今夜は違う。ブルーのワンピースを着た女性がベランダに出て、夜空を見上げている。大きなため息をついてひとこと言った。「もう忘れるね」彼女は恋人とサヨナラしたらしかった。ヨルは夜風をそっと吹かせた。彼女の髪は揺れ、ぐーっと伸びをしてふっと口角を上げた。ヨルだからできることがあった。ヨルはヨルのままでいいのかもしれない。そう思った。

*「電車は遅れておりますが」は毎週火曜日に更新しています。

406

海のしわざ。

砂浜をまっすぐ歩けないのは、海からあがったばかりだから。波の揺れが身体ぜんぶを占めている。潮風が髪の毛の中に入り込んで、ほわんほわん。頭の中もほわんほわん。つまらないともだちのジョークにも大笑いしてしまう。パラソルの下にもぐったら、日焼け止めを塗るつもりだったけど。もうどうでもよくなった。目をとじても太陽がいる。乾いたのどにコカコーラを流し込みたいけど。誰が買いにいくかジャンケンが必要で。海のだるさは、地球上でいちばんここちいい。

*「電車は遅れておりますが」は毎週火曜日に更新しています。

405

夕焼けの合図。

どちらかがバイバイの気配を投げなければ、キャッチボールは永遠に続く。あいつのボールと僕のボールは会話になっている。言葉がなくても話している。むこうが思いっきり投げてくれば、こっちもさらに思いっきり。クスッと笑みがこぼれる。オレンジ色の太陽が、ゆっくりとビルの向こうに吸い込まれていく。あと一球、あと一球だけ。白いボールが、薄暗い空にポーンと高く舞い上がる。僕は駆け寄って、目を凝らしながらグローブにおさめる。これがバイバイの合図。今日も自分から言い出せなかった。ちょっとくやしい。

*「電車は遅れておりますが」は毎週火曜日に更新しています。

404

うそがわかる猫。

ハハはお客さんが来るとふわりと抱っこしてやさしく撫でるんだ。でもアタシと二人っきりの時は触ってもこない。ごはんをくれるのはハハなのでその時だけはアタシの方から足に絡みつくけどね。チチは夜中にひとりでテレビをみている。アタシはかわいそうになって膝にのる。チチはのどを掻いてくれる。そしてたまに泣いているのを知っている。ケンタは最近好きなこができた。勉強机でそのこの写真をながめている。アタシが写真の上に座ろうとしたら(だめぇー)と言った。おこった顔というよりニマニマしていた。ここの家族は本当のことをしゃべらない。

*「電車は遅れておりますが」は毎週火曜日に更新しています。

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電車は遅れておりますが

ふわっと映像が浮かんで、
こころが6.6グラム(当社比)軽くなる。
ワンシチュエーションでつづる、
シラスアキコのショートストーリー。

自分がジブンにしっくりくる感じの時は、気分がいい。
こころと身体が同じ歩幅で歩いているのがわかる。
いつもこんな感じで生きていきたい。

でも、かなりの確率でイライラと聞こえてくる
「お急ぎのところ、電車が遅れて申し訳ございません」。

そんな時は“ここじゃないどこか”に、
ジブンをリリースしてしまおう。
きっと気持ちの針が、真ん中くらいに戻ってくるから。

シラスアキコ Akiko Shirasu
文筆家、コピーライター Writer, Copywriter

広告代理店でコピーライターとしてのキャリアを積んだ後、クリエイティブユニット「color/カラー」を結成。プロダクトデザインの企画、広告のコピーライティング、Webムービーの脚本など、幅広く活動。著書に「レモンエアライン」がある。東京在住。

color / www.color-81.com
レモンエアライン / lemonairline.com
contact / akiko@color-81.com

◎なぜショートストーリーなのか
日常のワンシチュエーションを切り抜く。そこには感覚的なうま味が潜んでいる。うま味の粒をひとつひとつ拾い上げ文章化すると、不思議な化学反応が生まれる。新たな魅力が浮き上がってくる。それらをたった数行のショートストーリーでおさめることに、私は夢中になる。

イラストレーション
山口洋佑 / yosukeyamaguchi423.tumblr.com