213

ノン・タラレバ。

ねこにはタラレバがない。

あの時、こうしてタラ。もっと、こうしてレバ。

ねこは一度も過去を振り返り、悔やんだことがない。

ねこは“イマ”気持ちいいこと、“イマ”面白いこと、

“イマ”美味しいことしか興味がない。

ねこには“モシモ”の不安もない。

未来をあれこれ思い巡らし、恐怖を感じたりしない。

ねこは“イマ”だけを生きている。

ねこは猫背だけど、ねこの背中は潔い。

(にんげんもノン・タラレバ&ノン・モシモで生きていけたらいいな)

 

 

*「電車は遅れておりますが」は毎週火曜日に更新しています。

 

212

夕焼けに溶けた恋。

先輩に彼女ができたらしい。

密かに憧れ続けていた先輩。

部活で会うと妹みたいにからかってくる先輩。

本当は兄ではなく、彼氏になって欲しかった。

学校の帰り道、ひとり夕焼けの街を歩く。

先輩の彼女なら、きっと美人なんだろうな。

きっと大人っぽくて、頭がよくて。

「おぅ!」後ろから頭をポンと小突いたのは、先輩だった。

私はいつもの軽いジョークを飛ばそうとしたけれど、何も出てこない。

先輩は(ん?)と首を傾げて私を覗き込んだあと、ぐんぐん前を歩いていく。

先輩の背中が、オレンジ色に溶け込んでいく。

先輩は今この瞬間も、彼女のことを考えているのだろうか。

私の小さな恋が見えなくなっていく。

 

*「電車は遅れておりますが」は毎週火曜日に更新しています。

 

211

万事快調。

ベッドの中で目を覚ますと、もうこの街は動き出していた。半径100キロメートルの気配のすべてが、ダイレクトに胸に届いてくる。ここはニューヨーク。世界じゅうの野心とロマンが集結する場所。その中に私もいた。今日という日を華々しくデビューするために、勢いよく起き上がる。シーツから出た脚は、陽に焼けて輝いている。私は湯を沸かしコーヒーをこしらえ、ビスケットをかじる。ラジオのニュースを聴きながら、メイク。ルックは白い麻のシャツと、黒いスキニーパンツにした。シャツのボタンは3個目まで外し、美しい鎖骨をアクセサリー代わりにした。

外に出るとドライバーとメッセンジャーボーイが、言い争いをしている。後に続く車は、クラクションを鳴らし続けている。私は地下鉄を乗り継ぎ、目当てのビルまで到着した。見上げると建物は雲の中を突き抜けて、てっぺんは見えなかった。エレヴェーターは地上78階まで、一度も止まらずに上昇していく。

ドアが開くと、白で統一されたエントランスが広がっていた。まっすぐにカウンターまで歩く。夢の仕事にありつくために、私は全細胞を集中させる。受付の女性は細く長い首に、アイスキューブがぶら下がったチョーカーを巻いている。私は自分の名前と、面接に来た旨を伝えた。彼女は野菜サンドを咀嚼しながら(ちょっと待ってね)というポーズをして、紙コップのカフェ・オ・レで流し込んだ。私の人生は、たった今始まったばかりだ。これまでの過去は、全部捨ててきた。窓から見えるエンパイア・ステートビルを、手のひらの中にそっと丸め込み握りしめた。

 

*「電車は遅れておりますが」は毎週火曜日に更新しています。

 

 

210

ほっぺたがいい日。

パーンと晴れ渡った空。小鳥の愛らしい歌声。

ヒカリを浴びながら歩く。音をださない口笛を吹きながら。

うん、今日は肌の調子がいい。

今朝、鏡の中で発見した。生まれたての細胞が、肌の下で小躍りしてた。

ほっぺたがいいこんな日は、あの人とばったり会いたい。

あの角を曲がったら、あの人とぶつかりますように。

漫画のようなわたしの願い、神サマ叶えて。

 

*「電車は遅れておりますが」は毎週火曜日に更新しています。

 

209

雨粒の記憶。

「プツプツって、雨が落ちる音が好きなんだよね。」彼女は赤い傘の内側から、細い指を伸ばし雨粒をたどった。学校からの帰り道、偶然一緒になった幸運。なのに、何を喋っていいのかわからない焦り。僕はもう少しで「雨って嫌だよねー。」と、口から出るところだった。(言わなくてよかった)当たり障りのない話題で、この数秒間をしのごうと思ったのだ。僕も雨が傘に落ちる音を聞いてみた。(生まれて初めて聞いた)プツプツ、プツプツプツ。彼女の瞳や耳のフィルターを通すと、世界はこんなにも心地よく美しいのか。こぼれ落ちる雨粒は、彼女の横顔にキラキラと反射していた。僕はこの日を境に、彼女のことがもっと好きになった。雨の日も好きになった。そして20年以上経った今も、雨が降ると必ず雨粒の音に耳を澄ましている。

 

*「電車は遅れておりますが」は毎週火曜日に更新しています。

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電車は遅れておりますが

ふわっと映像が浮かんで、
こころが6.6グラム(当社比)軽くなる。
ワンシチュエーションでつづる、
シラスアキコのショートストーリー。

自分がジブンにしっくりくる感じの時は、気分がいい。
こころと身体が同じ歩幅で歩いているのがわかる。
いつもこんな感じで生きていきたい。

でも、かなりの確率でイライラと聞こえてくる
「お急ぎのところ、電車が遅れて申し訳ございません」。

そんな時は“ここじゃないどこか”に、
ジブンをリリースしてしまおう。
きっと気持ちの針が、真ん中くらいに戻ってくるから。

シラスアキコ Akiko Shirasu
文筆家、コピーライター Writer, Copywriter

広告代理店でコピーライターとしてのキャリアを積んだ後、クリエイティブユニット「color/カラー」を結成。プロダクトデザインの企画、広告のコピーライティング、Webムービーの脚本など、幅広く活動。著書に「レモンエアライン」がある。東京在住。

color / www.color-81.com
レモンエアライン / lemonairline.com
contact / akiko@color-81.com

◎なぜショートストーリーなのか
日常のワンシチュエーションを切り抜く。そこには感覚的なうま味が潜んでいる。うま味の粒をひとつひとつ拾い上げ文章化すると、不思議な化学反応が生まれる。新たな魅力が浮き上がってくる。それらをたった数行のショートストーリーでおさめることに、私は夢中になる。

イラストレーション
山口洋佑 / yosukeyamaguchi423.tumblr.com