63

カクテルに太陽をひとさじ。

オレンジの夕陽に淡いピンクが滲んできた頃、彼女はギャングのスピリッツを抱えて黒いドアをあける。この店のアルコールをすべて飲み干してあげる!という具合に。

いけない飲み物くださいな、とバーテンダーに合図を送ると出てきたのは “ロングアイランド・アイスティ”。もちろん紅茶など一滴も入っていない。なにしろウオッカ、ラム、テキーラ、ジンといった、ありったけのスピリッツをごちゃ混ぜにして、甘いコーラで仕上げたタチの悪いカクテルだ。(口あたりが異常なほど良いから危険)

彼女は冷えたグラスを天井に近い窓にかざす。「昼間はすごい熱でさんざんイジメてくれてありがとう」と、こころの中でウインクする。今日最後の太陽は全面的に降参して、ロングアイランド・アイスティの中にとろりと溶けていった。乾杯。

 

62

叔母の家に泊まりにいった。

「バスタオルは上から2番目の引き出しに入っているわよー」と、叔母はキッチンから叫んでいる。ふかふかのタオルが2列になって眠っていた。そっとタオルを顔にあててみる。いい匂い。柔軟剤の残り香かと思いきや、そうじゃないという。未使用の石鹸を、引き出しの中に忍ばせているからだという。風呂から上がって冷たいサイダーを飲んでいるときに、叔母から聞いた話だ。

 

61

地球の見張り役。

ベッドから脚をおろすと、板張りの温度はほぼ足裏と同じくらいだった。朝まで眠り溶ける睡眠力を持った彼が、途中で目を覚ますのは珍しい。すべては夏の夜の仕業だった。家の中は真っ暗だし、まぶたも半分しかあいていないことから、用心深く歩こうとする自分自身に感心する。

キッチンに入ると、ブーンと鈍くて低い電子音がその場を仕切っていた。冷蔵庫のドアをあけると、青白い灯りと冷気があふれ出てくる。彼はその心地よさに一瞬目を閉じる。家の中で一番冷えた小さな部屋に、ずるずると入り込んで眠れたらどんなに幸せだろう。

冷凍庫にはキューブ型の氷がたっぷり出来ていた。彼は指で氷をつかむと、透明のグラスにわざと少し高い位置からカランカランと音をたてて入れた。次に水道水を細く注ぐ。氷と氷がくっつき、ミシッと鳴き声を発する化学反応を楽しむ。作りたての氷水を、一気に身体の中に流し込む。渋滞している道路を、スピードを上げて駆け抜けるイメージが湧いた。夏の夜の自分を、じっと見張っていてくれた冷蔵庫をふと振り返る。

60

人生の初心者になってしまった。

大げんかが勃発したのは夜中の11時22分だった。僕は危険を察知すると “いま何時であるか”を確認する癖があるのだ。夕飯を食べ終えた後くらいから彼女の機嫌は怪しかった。コーヒーをすすりながら愛聴盤の一曲(だけ)を聞き、食後の仕上げをしようと思ったとき「私の前でジャズはやめて!」と叫ばれた。

そして風呂からあがってバスタオルを一瞬だけソファーの上に置いたら「湿気がつくからやめて!」と、今度はバスタオルを放り投げられた。一番嫌いな女性の行動、それは叫ぶこと、ものを投げること。僕の怒り我慢キャパシティは完全に崩壊してしまった。戦いは午前1時18分まで続いた。

朝、目がさめると彼女はベッドにいなかった。リビングに行くとコーヒーの香り、そして「パン焼く?」と聞かれた。しかも友好的な目つきでだ。僕は「うん」と、ものすごく慎重に、かつ普段通りにこたえた。彼女は何を考えているのだろうか。まさか夜中のけんかを覚えていないわけはないはずだ。窓の外をみると、嘘みたいに晴れている。

59

睡眠不足のホットケーキ。

金色に輝くはちみつが、まっすぐホットケーキのあたたかな肌の上に落ちていく。トロトロと均等に広がって、はちみつのみずうみができた。キューブ型のバターを真ん中に置く。フォークでくるくると円を描いていくと、はちみつとバターはゆっくりと混ざり合い、さらに新しい輝きが生まれる。ナイフで切れ目を入れると、ふぅわりとあまい香りが立ちのぼる。カフェ全体の音がようやく聞こえてきたのは、ひとくち目を味わってからだった。睡眠不足の脳に、ホットケーキは効く。

58

ズル休みの味。

上司に“熱があります”と嘘をついて電話をきった後、彼女は小さく深呼吸をして、今日いちにちの可能性の大きさに惚れ惚れした。何だってできる。会社の近くを避ければ、買い物にだって、映画にだって行ける。日帰りでのんびり温泉に浸かることも可能だ。

自分が二人の人間に分かれることに成功した今、仮の自分は自宅のベッドで寝ていてもらい、もうひとりの自分は人目を忍んでどこまでも自由に羽ばたけるのだ。昔、深夜のテレビで観たモノクロ映画が頭をよぎる。顔を別人に変えた男が、まったく別の人生を生きる内容だった。

「さて、どうするかな」彼女はベッドに戻り大の字になってみた。カーテンの隙間から覗く雲は、ゆっくりと移動している。とりあえずブランチを食べながら考えることにしよう。焼き戻したクロワッサンには、バターとハチミツの両方をたっぷり塗るつもりだ。(とワクワクしつつも、このまま夕方まで寝落ちしてしまわないように気をつけなければとおもった)

 

57

領収書は格好いい。

彼女はランドセルを自分の部屋の所定のフックに掛けると、デスクに座る。先週、文房具店で買ってもらった領収書をめくってみる。彼女は複写ができるカーボン紙付きの領収書に、ずっと憧れていたのだ。ママは「どうしてこんなものが好きなの」と不思議そうな顔をしていたっけ。カーボン紙のインク部分の匂いをかいでみる。大人っぽいフォーマルな匂いがした。

ミシン目がついた控えには、薄い緑色の模様が描かれている。お寺で見たお釈迦さまの後光のようなデザインだった。この一枚を切り離すときの、丁寧な手の動きにも憧れていた。ママがお店の人から領収書をもらう時、彼女はひとつひとつの動作を一瞬たりとも見逃さなかった。さっそくボールペンで数字を入れて、ミシン目から切り離してみたかったけれど、彼女にはもったいなくてとてもできない。

56

自転車までの距離は遠かった。

日が落ちるのを待つと、彼は今日もひとり自転車に乗る練習を始めるのだった。(このことは親友にも内緒にしている)サドルにまたがり、つま先で地面を蹴って前へ進む。ペダルに足を置こうとしても、なかなかタイミングが上手くいかない。地球から身体がふっと浮いてしまう怖さといったらなかった。

ようやく右足でペダルを踏み込む。「よし!」と思った瞬間に、ハンドルは左右にグラグラと揺れ、派手に自転車ごと倒れてしまう。その場に座り込んで膝小僧をさする。血は出ていなかった。公園の木々は黒々としたシルエットに変わっていた。まぁまぁな絶望感が彼の中で広がっていく。

55

皿洗いドリーマー。

彼女はシンクの前に立ち食器の後片づけをはじめた。スポンジに洗剤を含ませギュッと握り締めると、泡は生き物のように成長した。透明のワイングラス、木製のサラダボール、白い磁器の皿を磨く。小さなシャボン玉が、次から次に浮かび上がる。シャボン玉どうしがぶつかりあって、大きなシャボン玉になる。エプロンをした彼女が、プルンと映っている。シャボン玉は、キッチンの天井までいっぱいになった。彼女は食器から手をはなし、その様子を見上げている。

54

野菜を狩りにいく。

喉も身体も水分を欲しがっている。いまはゴクゴクと飲み干す冷たい水ではなく、シャリっと噛みつくと口の中でプシュッと弾ける新鮮な野菜を欲しがっている。彼女はスーパーマーケットに入り、赤いカゴを掴みとった。

最初に目があったのは春キャベツ。やわらかそうな葉っぱは、密やかな夢をくるんでいるようだ。にょっきり芽を出してジャーン!とデビューしたアスパラガスは、アイドルみたい。セロリのフサフサの葉っぱは、オイルでさっと炒めてモリモリ食べてやろう。パンとハリのある元気なニンジンは、ポリポリ片手で味わおう。

BGMが“蛍の光”に変わったことも気づかず、彼女は野菜をカゴに収めていく。目は爛々と輝き、口角は少しだけ上がっている。

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電車は遅れておりますが

ふわっと映像が浮かんで、
こころが6.6グラム(当社比)軽くなる。
ワンシチュエーションでつづる、
シラスアキコのショートストーリー。

自分がジブンにしっくりくる感じの時は、気分がいい。
こころと身体が同じ歩幅で歩いているのがわかる。
いつもこんな感じで生きていきたい。

でも、かなりの確率でイライラと聞こえてくる
「お急ぎのところ、電車が遅れて申し訳ございません」。

そんな時は“ここじゃないどこか”に、
ジブンをリリースしてしまおう。
きっと気持ちの針が、真ん中くらいに戻ってくるから。

シラスアキコ Akiko Shirasu
文筆家、コピーライター Writer, Copywriter

広告代理店でコピーライターとしてのキャリアを積んだ後、クリエイティブユニット「color/カラー」を結成。プロダクトデザインの企画、広告のコピーライティング、Webムービーの脚本など、幅広く活動。著書に「レモンエアライン」がある。東京在住。

color / www.color-81.com
レモンエアライン / lemonairline.com
contact / akiko@color-81.com

◎なぜショートストーリーなのか
日常のワンシチュエーションを切り抜く。そこには感覚的なうま味が潜んでいる。うま味の粒をひとつひとつ拾い上げ文章化すると、不思議な化学反応が生まれる。新たな魅力が浮き上がってくる。それらをたった数行のショートストーリーでおさめることに、私は夢中になる。

イラストレーション
山口洋佑 / yosukeyamaguchi423.tumblr.com