276

ラジオデイト。

黒いギンガムチェックのワンピースの彼女と、モスグリーンのセーターを着込んだ彼は、それぞれのコーヒーを目の前に置いたまま黙り込んでいる。彼女は遠くの空を眺めているし、彼は自分の手のひらをじぃーっと見つめている。と、突然、ふたりは同時に笑いだした。見つめ合って笑いだした。恋人たちはカフェに流れるラジオに夢中だった。ディスクジョッキーも可笑しくてしかたない、といった風の喋り方だった。秋の一番最初の日、午後のことだった。

 

*「電車は遅れておりますが」は毎週火曜日に更新しています。

275

夜中のおこりんぼう。

のどに、ずっと、あのひとの言葉の骨がチクっと刺さっていて。ずっと、飲み込めなくて。でも、ずっと、放っておいたんだ。そうしたら夜中に突然、ズキズキと暴れだして。言葉の骨が、痛くて、痛くて。ようし!明日になったら“こういう風に言ってやろう!”“いや、こういう言い方のほうが効くかも!”あのひとをこらしめるアイデアが、ばんばん出てきて、おこりんぼうのまま眠った。朝になった。カーテンから、やわらかなヒカリが透けている。あのひとの顔が浮かんできた。(ニコニコ微笑んでいる顔だった)これまで、あのひとが自分にやってくれたモロモロを思い出す。“あの言葉は、そういう意味じゃなかったのかも”のどにひっかかった骨は、どこかへ消えていた。夜中のおこりんぼうは、もうどこにもいない。

 

 

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274

時間とほっぺた。

伸びたり、縮んだりするんだ、時間は。たいくつな時は、1時間が一生分に思えるし、夢中な時は、1時間が3分に思える。だから、夢中で生きているあのひとは、生きている年齢より、遥かに短い年数しか感じていない。だからあのひとは、何十年生きていても、ふっくらぷるぷる、リンゴのほっぺた。

 

 

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273

鏡の中のひと。

三つ編みをほどいたら、大人のウェーブになった。ママの口紅をぬったら、くちびるの目が覚めた。おしろいをパタパタしたら、あまい匂いがあらわれた。ボーン、ボーン、ボーン、ボーン。柱時計が夕暮れを伝えてくる。家族が帰ってくる前にお化粧を落とさなくちゃ。でも、初めて会うじぶんにうっとりとしてしまう。

 

 

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272

空の宇宙劇場。

セミのビージーエム。風と風鈴の演出。子どもたちの台詞。クリーニング屋さんの小銭の音。夕焼けサーカス。どこかの家の晩ご飯の匂い。線香花火の寂しさ。星屑の模様。二度と来ない2022年の夏休み。見上げるともう、残りあと少し。

 

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271

ほぼ満月の夜。

冷たいビールを飲んで、生ぬるい空気の公園を抜けて、今夜ただの同僚より3cmくらい恋人寄りに傾いた僕たち。もう少しで満月になりそうな月が、ぼんやり。彼女が自分のアパートを案内してくれている。(もちろん初!)階段を先に上がる彼女は、振り向いて僕に言った。「あたしたち不良かな?」彼女のいたずらっぽい目。あぁもう完全にノックアウト。はい、僕の負けです。

 

 

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270

いま!それだけ。

「いま!」と言ったその瞬間、その今はもう過去だ。今は今しかなくて、今は今の連続だ。いま、いま、いま!いまを楽しもう、いまを感動しよう、いまを踊ろう。二度と感じられない「いま!」を手づかみでムシャムシャ食べるんだ。一番食べたいものから、食べるんだ。後回しなんてしない。

 

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269

トロピカルムード。

いかにチカラを抜くか、が夏を制するコツ。ギンガムチェックの水着は待ちきれないって顔をしてるし、ビーチサンダルはもう駆け出しそうだし、ザ・ビーチ・ボーイズはラジオでハモってるし、砂糖たっぷりのドーナツは泳いだ後のために待機。ちゃらちゃらと気分のオトで踊ってしまおう。トロピカルなネオンサインに思いっきり引っ張られてしまおう。フクザツなことは後回し。ゴキゲンを最優先。

 

*「電車は遅れておりますが」は毎週火曜日に更新しています。

 

268

あなたはよわい。あなたはつよい。

じぶんのヨワヨワなところを熟知しているひとは、つよい。じぶんのブレブレなところを理解しているひとは、つよい。じぶんのメソメソなところを許可しているひとは、つよい。あなたのよわさは、あなたのつよさを生みだしている。

 

 

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267

クロワッサンの夜。

お月さまをソファーがわりにするなって、おととい太陽に小言をいわれたけれど、彼女はまんまるお月さまに寄りかかって今夜も本を読んでいる。お月さまはやわらかくて気持ちいいし、真夜中でも読書灯がいらないし。お腹が空くと、お月さまをつまんでひょいとひとくち。(カスタードあじでおいしい)気がつくとお月さまはクロワッサンのカタチになっていた。「いつのまにかこんなに食べちゃってごめん」と彼女はあやまった。お月さまは「わたしを見てクロワッサン食べたくなるひと、いるだろうなぁ」と笑った。

 

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電車は遅れておりますが

ふわっと映像が浮かんで、
こころが6.6グラム(当社比)軽くなる。
ワンシチュエーションでつづる、
シラスアキコのショートストーリー。

自分がジブンにしっくりくる感じの時は、気分がいい。
こころと身体が同じ歩幅で歩いているのがわかる。
いつもこんな感じで生きていきたい。

でも、かなりの確率でイライラと聞こえてくる
「お急ぎのところ、電車が遅れて申し訳ございません」。

そんな時は“ここじゃないどこか”に、
ジブンをリリースしてしまおう。
きっと気持ちの針が、真ん中くらいに戻ってくるから。

シラスアキコ Akiko Shirasu
文筆家、コピーライター Writer, Copywriter

広告代理店でコピーライターとしてのキャリアを積んだ後、クリエイティブユニット「color/カラー」を結成。プロダクトデザインの企画、広告のコピーライティング、Webムービーの脚本など、幅広く活動。著書に「レモンエアライン」がある。東京在住。

color / www.color-81.com
レモンエアライン / lemonairline.com
contact / akiko@color-81.com

◎なぜショートストーリーなのか
日常のワンシチュエーションを切り抜く。そこには感覚的なうま味が潜んでいる。うま味の粒をひとつひとつ拾い上げ文章化すると、不思議な化学反応が生まれる。新たな魅力が浮き上がってくる。それらをたった数行のショートストーリーでおさめることに、私は夢中になる。

イラストレーション
山口洋佑 / yosukeyamaguchi423.tumblr.com