282

夕暮れサーカス。

僕のこころは動かない、あの日から、ずっと。動かなくなってしまった。器用に会釈をしたり、会話をしたり、日常生活には困らない。でも美味しいラーメンを食べて「美味しいなぁ」という事実はわかったとしても、こころにまでは落ちてこない。つまらない。いよいよ、つまらない男になってしまった。ソファから立ち上がり、キッチンまでの数歩をあるく。水道水をコップに注ぐ。またソファに戻ろうとした、その時。窓の外に異変を感じた。空が濃いピンクと明るいオレンジ色に変わっていた。空自身が精一杯に“夕暮れ”の表現をしていた。空中ブランコは惜しげも無く、まぶしい色彩をのびのびと放っていた。窓をあけて空を吸い込んだ。その数秒のあいだで、もう空の色は変化していた。あ、いまこころが動いた。驚いた。

 

*「電車は遅れておりますが」は毎週火曜日に更新しています。

 

281

きゅうけいちゅう。

ふわっとほうっておこう、そのもんだい。わすれたふりしておこう、あのことば。まっすぐあるくのをやめて、ふっとみちをそれてみよう。えらぶことにつかれたら、えらばなくてもいい。いきをしているだけで、じゅうぶんえらいから。

 

 

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280

彼女の星占い。

僕はいま髪を切っている。美容師の細い指先は、器用にハサミを動かしていく。シャリシャリと奏でるその音は、なかなか耳もとに心地いい。でも、僕のこころの中は大荒れだった。なぜなら彼女と大げんかをしたから。機嫌の悪い時の彼女は悪魔だ。僕のやることすべてにケチをつけるし、モノにはあたるし、一緒にいると息がつまりそう。

僕は静かにため息をつきながら、渡された雑誌をめくる。星占いのページで手が止まる。“まったく、あいつどんな運勢してんだよ…”思わず彼女の星座を探す。ラッキーアイテムはバナナケーキらしい。(そういえば彼女の好物だ)帰りに買って帰る?あぁ!こんなこと考えるじぶんに腹がたつ!鏡の中の僕は、なかなか面白い表情をしていた。

 

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279

じぶんにいいこと。

じぶんの目に、澄んだものを見せてあげよう。じぶんの耳に、きれいな音を聞かせてあげよう。じぶんの身体に、新鮮なものを送り込んであげよう。じぶんのこころに、やさしい言葉をかけてあげよう。ほころんでいたら、お直ししてあげよう。きつかったら、ほどいてあげよう。遊びたかったら、野放しにしてあげよう。

 

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278

引き算のひと。

どんどん引いていったら、どーんと魅力があらわれる。古ぼけた言い訳も、ちっぽけなプライドも、引いて、引いていったら、地球にいっこしかないヒカリが見えてくる。誰にもまねできないそのひとだけのヒカリ。(足りないところを足さなきゃ、って足し算やっていくと、生き物としての輝きが曇っていくね)さぁさ、いま着てる鎧(よろい)も脱いだ、脱いだ!

 

 

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277

スロースターター!!!

明日やれることは、明日やろう/今日やれることも、明日やろう/気持ちがのらないときは、手をつけない/ダメなひとねって言われても、気にしない/集中できないときは、さっさと退散/そんなじぶんと、とことんつきあおう/サイテーなじぶんを、じぶんだけは信じよう(ピース!!!)

 

 

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276

ラジオデイト。

黒いギンガムチェックのワンピースの彼女と、モスグリーンのセーターを着込んだ彼は、それぞれのコーヒーを目の前に置いたまま黙り込んでいる。彼女は遠くの空を眺めているし、彼は自分の手のひらをじぃーっと見つめている。と、突然、ふたりは同時に笑いだした。見つめ合って笑いだした。恋人たちはカフェに流れるラジオに夢中だった。ディスクジョッキーも可笑しくてしかたない、といった風の喋り方だった。秋の一番最初の日、午後のことだった。

 

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275

夜中のおこりんぼう。

のどに、ずっと、あのひとの言葉の骨がチクっと刺さっていて。ずっと、飲み込めなくて。でも、ずっと、放っておいたんだ。そうしたら夜中に突然、ズキズキと暴れだして。言葉の骨が、痛くて、痛くて。ようし!明日になったら“こういう風に言ってやろう!”“いや、こういう言い方のほうが効くかも!”あのひとをこらしめるアイデアが、ばんばん出てきて、おこりんぼうのまま眠った。朝になった。カーテンから、やわらかなヒカリが透けている。あのひとの顔が浮かんできた。(ニコニコ微笑んでいる顔だった)これまで、あのひとが自分にやってくれたモロモロを思い出す。“あの言葉は、そういう意味じゃなかったのかも”のどにひっかかった骨は、どこかへ消えていた。夜中のおこりんぼうは、もうどこにもいない。

 

 

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274

時間とほっぺた。

伸びたり、縮んだりするんだ、時間は。たいくつな時は、1時間が一生分に思えるし、夢中な時は、1時間が3分に思える。だから、夢中で生きているあのひとは、生きている年齢より、遥かに短い年数しか感じていない。だからあのひとは、何十年生きていても、ふっくらぷるぷる、リンゴのほっぺた。

 

 

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273

鏡の中のひと。

三つ編みをほどいたら、大人のウェーブになった。ママの口紅をぬったら、くちびるの目が覚めた。おしろいをパタパタしたら、あまい匂いがあらわれた。ボーン、ボーン、ボーン、ボーン。柱時計が夕暮れを伝えてくる。家族が帰ってくる前にお化粧を落とさなくちゃ。でも、初めて会うじぶんにうっとりとしてしまう。

 

 

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電車は遅れておりますが

ふわっと映像が浮かんで、
こころが6.6グラム(当社比)軽くなる。
ワンシチュエーションでつづる、
シラスアキコのショートストーリー。

自分がジブンにしっくりくる感じの時は、気分がいい。
こころと身体が同じ歩幅で歩いているのがわかる。
いつもこんな感じで生きていきたい。

でも、かなりの確率でイライラと聞こえてくる
「お急ぎのところ、電車が遅れて申し訳ございません」。

そんな時は“ここじゃないどこか”に、
ジブンをリリースしてしまおう。
きっと気持ちの針が、真ん中くらいに戻ってくるから。

シラスアキコ Akiko Shirasu
文筆家、コピーライター Writer, Copywriter

広告代理店でコピーライターとしてのキャリアを積んだ後、クリエイティブユニット「color/カラー」を結成。プロダクトデザインの企画、広告のコピーライティング、Webムービーの脚本など、幅広く活動。著書に「レモンエアライン」がある。東京在住。

color / www.color-81.com
レモンエアライン / lemonairline.com
contact / akiko@color-81.com

◎なぜショートストーリーなのか
日常のワンシチュエーションを切り抜く。そこには感覚的なうま味が潜んでいる。うま味の粒をひとつひとつ拾い上げ文章化すると、不思議な化学反応が生まれる。新たな魅力が浮き上がってくる。それらをたった数行のショートストーリーでおさめることに、私は夢中になる。

イラストレーション
山口洋佑 / yosukeyamaguchi423.tumblr.com