31

ポストの中の地平線

彼は一通の封筒を手に歩いている。封筒がシワになるのを恐れ、握りしめないように気をつけながら歩いている。目線の先にポストが見えてくる。毎日視界に入っているはずなのに、初めて見るような存在感だった。(イメージより背が低く、イメージよりぽってりとしていた)

ポストの前に立つ。遠くから部活の声が聴こえてくる。冷たく白い空気の中で、手のひらだけが汗ばんでいる。差し出し口のこっち側とむこう側では、別の地平線があった。彼は手首ごと奥に入れ、指を放す。封筒はどこまでも深く、真っ暗な井戸のような空間に、ひらひらと回転しながら落ちていった。(ような気がした)彼はもう後戻りできない。

30

建築士に伝えたいこと。

彼は家を建てるため、建築士と打ち合わせをしている。そして彼はさっきから同じ言葉を繰り返している。キッチンとキッチンカウンターがあれば、他は何もいらないと。建築士はベッドルームやリビング、クローゼットも必要ですよと反論するが、彼はすべてをキッチンで済ませるので大丈夫と一歩もひかない。こんなお客さんは初めてだ、と小声で建築士が漏らした。(彼にも聞こえた)キッチンでサンドウィッチを作り、煙草を吸い、ウイスキーを飲む。キッチンで手紙を書き、新聞を読み、考え事をする。キッチンで毛布に包まり眠りにつく。生活なんていらない。いや、これが彼の理想の生活なのだ。無言の時が続いた。それなら、とびきりユニークなキッチンを作りましょう。新時代のキッチン、幕開け!というような、と建築士は明るい表情で提案した。彼は首を横に振り、できるだけシンプルなキッチンがいいです、とこたえた。彼と建築士の考えは、水星と火星くらい離れていることだけがわかった。

29

夕陽の歩幅。

学校の帰り道、橋の上の真ん中あたりにくると、少年ふたりはどちらからともなく足を止める。そしてしばらくの間、ジョークを言い合っては笑い転げ、この時の終わりを惜しんでいる。一本の冷たい風が、白い団地の方から吹いてくる。

ふたりは橋を渡りきると、別々の道を歩き出す。「バイバーイ!」「バイバーイ!」後ろを振り返らずに叫びあう。やまびこのように響きあう。ありったけの声を出し続ける。それでも、相手の気配はだんだんと小さくなっていく。最後は、森がくっきりと浮かんだオレンジの空に、ゆらゆらと吸い込まれていった。いよいよ夜が降りてくる。

 

27

人はどこまでプレーンになれるか。

シェフの気まぐれサラダは、いつもベビーリーフとゆで卵と生ハムが盛られたもので、シェフの気まぐれはまったく入っていないし。本日のキッシュは、ほうれん草とベーコンのキッシュと一年じゅう決まっていたけれど。彼は今日もこの喫茶店に来てしまった。そして「シェフの気まぐれサラダと、本日のキッシュと、ホットコーヒーをください。」と、正式名称をウエイトレスに告げるのであった。

テーブルの脇には観葉植物が見事に育っていて、葉っぱの艶はまるでレプリカのような勢いがあり、彼は毎回葉っぱを手で触り確認する癖があった。(そして今日も確認した)BGMはだいたいポール・モーリアだった。氷が3個浮かんだ水を口に含む。料理が来るまでのあいだ、彼は午後の仕事の手順を考えることにした。BGMがビートルズに変わっていることに、しばらくして気づく。シェフ(というか喫茶店の主人)は、有線のチャンネルを入れ間違えたのだろうか。斜め前のご婦人がコップの水をこぼした。氷が床に落ちてキラキラと輝いている。

26

駆け抜ける方向。

美術館を出ると、雨は大降りになっていた。目の前には広い公園が続いていて、ふたりはどうするか一瞬戸惑ったが、顔を見合わせると同時に走り出した。男性は女性の腕を軽く持っていたが、それも勢いでふりほどくかたちになった。真っ直ぐに刺す雨は、女性のピーコートの色を変えていく。遊園地のような悲鳴が、いつしか弾ける笑い声になっていく。水たまりを飛び越えずに、ジャブジャブと鳴らした。森の匂いが深々と立ちあがる。大きな木の下に着いたときは、ふたりは恋人の一歩目を踏み入れたらしかった。

23

それでも時間は私にやさしい。

細い手首に巻き付いた狂った腕時計を信用しないかわりに、彼女の時間に対する考え方は彼女自身を幸福にした。こうして地下鉄に揺られているあいだも、冷蔵庫に眠っている卵は確実に劣化がはじまっており、つり革につかまった自分の美しい腕も、数十年後には無数の線が生まれてくるのだ。万歳。時は進む。実験は続く。(愉快な実験)この瞬間も終わり、終わりが続いていく。真っ暗な5時15分に目覚めたとき、朝なのか夕方なのかわからなかった。床に落とす足裏はひんやりと冷たく、カーテンから覗く空には星があった。テレヴィをつけるのをためらったのは、ニュースキャスターの様子が“地球は今何時か”を伝えてしまうから、そのままにしておいたのだ。時間そのものと遊んだ。(回想)どんな時間でも、手つかずで新品だから彼女には興味深かったのだ。まつ毛が濡れた赤ん坊と目があう。もうすぐ駅に着く。

22

雨粒が宇宙を包んでいる。

彼は赤い傘をさした彼女のうしろを歩いている。駆ければ5秒で追いつく距離を保ちながら歩いている。草をなでる雨音が、世界を透明にしていく。彼はひとりでいる彼女を見るのが好きだった。教室の中で笑っているときとはまったく違う。そっと息をしながら、考えごとをしているような。そしていま、キンモクセイのあまい匂いを一緒に通過している。彼女は彼に気づかないまま、宇宙でふたりきりになっている。

21

考え事のゆくえ。

布団の中に入ってから、ずいぶんと時間がたっていることは彼女にもわかっていた。眠りに落ちる瞬間を“あ、いまだ”と見届けたい。そんな意識がじゃまをする。この国でこんな深夜まで起きている小学生は、きっとじぶんだけだ。胸の真ん中あたりに、シュワシュワと焦りのソーダ水が湧き上がる。真っ暗な部屋。真っ暗な口の中。音楽の授業で演奏した行進曲が、高らかに耳の奥から聞こえてくる。じぶんの心臓が同じリズムで打っている。朝をつかまえに、裸足のまま外へ出てみたらどうなるだろう。真っ暗な地面にストンと穴があいた。これが夢なのか想像なのか、考えることを手放そうとおもった。

20

今日は歩いて帰ることにした。

一歩一歩、足を前に踏み出しているうちに、身体がだんだんと軽くなっていく。歩けば歩くほど、むしろ身体がないみたいになっていく。書類がつまったトートバッグさえも重さがなく、ただ勝手に肩にひっかかっている感じ。若い女性の笑い声やら、カフェのグリーンのヒカリやら、散歩する犬のぬれっとした瞳やらが、秋、最初のセーターに染み込んでいく。感覚だけが目をぱっちりと開けて、赤ん坊みたいに吸収していく。このまま、どこまでも歩いていけそうな気がしてくる。何にもとらわれていない、偏りのない、素晴らしく均整のとれた自分が、ただただ歩いている。

19

ドローンから見た地球の一例。

公園のベンチに座っている女性が、紙パックに入ったりんごジュースをきゅーっと吸ったら、風がスカートをフワリとさせたので急いで手で押さえ、犬を散歩させている男性は歩いたり止まったりして進んでいる。一番高い木のてっぺんには、半分にしぼんだ黄色い風船がひっかかっており、道路にはミニカーみたいな車がどこまでも連なって、青信号は何度もまばたきをしている。鳥の集団は東の方向にものすごい勢いで横切っていき、西の方を見下ろすと火の玉がトロトロとにじんでいく。意外にも、荷物を抱えて走っている宅配便の男性が、はっきりと確認できる。

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電車は遅れておりますが

ふわっと映像が浮かんで、
こころが6.6グラム(当社比)軽くなる。
ワンシチュエーションでつづる、
シラスアキコのショートストーリー。

自分がジブンにしっくりくる感じの時は、気分がいい。
こころと身体が同じ歩幅で歩いているのがわかる。
いつもこんな感じで生きていきたい。

でも、かなりの確率でイライラと聞こえてくる
「お急ぎのところ、電車が遅れて申し訳ございません」。

そんな時は“ここじゃないどこか”に、
ジブンをリリースしてしまおう。
きっと気持ちの針が、真ん中くらいに戻ってくるから。

シラスアキコ Akiko Shirasu
文筆家、コピーライター Writer, Copywriter

広告代理店でコピーライターとしてのキャリアを積んだ後、クリエイティブユニット「color/カラー」を結成。プロダクトデザインの企画、広告のコピーライティング、Webムービーの脚本など、幅広く活動。著書に「レモンエアライン」がある。東京在住。

color / www.color-81.com
レモンエアライン / lemonairline.com
contact / akiko@color-81.com

◎なぜショートストーリーなのか
日常のワンシチュエーションを切り抜く。そこには感覚的なうま味が潜んでいる。うま味の粒をひとつひとつ拾い上げ文章化すると、不思議な化学反応が生まれる。新たな魅力が浮き上がってくる。それらをたった数行のショートストーリーでおさめることに、私は夢中になる。

イラストレーション
山口洋佑 / yosukeyamaguchi423.tumblr.com