58

ズル休みの味。

上司に“熱があります”と嘘をついて電話をきった後、彼女は小さく深呼吸をして、今日いちにちの可能性の大きさに惚れ惚れした。何だってできる。会社の近くを避ければ、買い物にだって、映画にだって行ける。日帰りでのんびり温泉に浸かることも可能だ。

自分が二人の人間に分かれることに成功した今、仮の自分は自宅のベッドで寝ていてもらい、もうひとりの自分は人目を忍んでどこまでも自由に羽ばたけるのだ。昔、深夜のテレビで観たモノクロ映画が頭をよぎる。顔を別人に変えた男が、まったく別の人生を生きる内容だった。

「さて、どうするかな」彼女はベッドに戻り大の字になってみた。カーテンの隙間から覗く雲は、ゆっくりと移動している。とりあえずブランチを食べながら考えることにしよう。焼き戻したクロワッサンには、バターとハチミツの両方をたっぷり塗るつもりだ。(とワクワクしつつも、このまま夕方まで寝落ちしてしまわないように気をつけなければとおもった)

 

57

領収書は格好いい。

彼女はランドセルを自分の部屋の所定のフックに掛けると、デスクに座る。先週、文房具店で買ってもらった領収書をめくってみる。彼女は複写ができるカーボン紙付きの領収書に、ずっと憧れていたのだ。ママは「どうしてこんなものが好きなの」と不思議そうな顔をしていたっけ。カーボン紙のインク部分の匂いをかいでみる。大人っぽいフォーマルな匂いがした。

ミシン目がついた控えには、薄い緑色の模様が描かれている。お寺で見たお釈迦さまの後光のようなデザインだった。この一枚を切り離すときの、丁寧な手の動きにも憧れていた。ママがお店の人から領収書をもらう時、彼女はひとつひとつの動作を一瞬たりとも見逃さなかった。さっそくボールペンで数字を入れて、ミシン目から切り離してみたかったけれど、彼女にはもったいなくてとてもできない。

56

自転車までの距離は遠かった。

日が落ちるのを待つと、彼は今日もひとり自転車に乗る練習を始めるのだった。(このことは親友にも内緒にしている)サドルにまたがり、つま先で地面を蹴って前へ進む。ペダルに足を置こうとしても、なかなかタイミングが上手くいかない。地球から身体がふっと浮いてしまう怖さといったらなかった。

ようやく右足でペダルを踏み込む。「よし!」と思った瞬間に、ハンドルは左右にグラグラと揺れ、派手に自転車ごと倒れてしまう。その場に座り込んで膝小僧をさする。血は出ていなかった。公園の木々は黒々としたシルエットに変わっていた。まぁまぁな絶望感が彼の中で広がっていく。

55

皿洗いドリーマー。

彼女はシンクの前に立ち食器の後片づけをはじめた。スポンジに洗剤を含ませギュッと握り締めると、泡は生き物のように成長した。透明のワイングラス、木製のサラダボール、白い磁器の皿を磨く。小さなシャボン玉が、次から次に浮かび上がる。シャボン玉どうしがぶつかりあって、大きなシャボン玉になる。エプロンをした彼女が、プルンと映っている。シャボン玉は、キッチンの天井までいっぱいになった。彼女は食器から手をはなし、その様子を見上げている。

54

野菜を狩りにいく。

喉も身体も水分を欲しがっている。いまはゴクゴクと飲み干す冷たい水ではなく、シャリっと噛みつくと口の中でプシュッと弾ける新鮮な野菜を欲しがっている。彼女はスーパーマーケットに入り、赤いカゴを掴みとった。

最初に目があったのは春キャベツ。やわらかそうな葉っぱは、密やかな夢をくるんでいるようだ。にょっきり芽を出してジャーン!とデビューしたアスパラガスは、アイドルみたい。セロリのフサフサの葉っぱは、オイルでさっと炒めてモリモリ食べてやろう。パンとハリのある元気なニンジンは、ポリポリ片手で味わおう。

BGMが“蛍の光”に変わったことも気づかず、彼女は野菜をカゴに収めていく。目は爛々と輝き、口角は少しだけ上がっている。

53

十三番目の女。

映画監督は傷あと治しクリームの雑誌広告に出ていた女性が誰であるかは知らなかったが、強烈に惹かれるものがあった。彼女はストライプの水着を着てハンモッグに横たわり、作り笑いをしていた。手にはパイナップルが刺さった飲み物を持ち、長い脚のラインに沿うように“去年の傷とはさようなら”というキャッチフレーズがイタリア語のタイポグラフィで描かれていた。彼女の瞳はビー玉みたいに大きく濡れ濡れとしていた。人間離れした魅力があった。映画監督は、動いている彼女をどうしても見てみたくなった。今日のオーディションの目的はひとつ。彼女に会うためだった。ドアが開いた。十三番目に現れた彼女は、ゆっくりと映画監督の前に立った。

 

52

初夏のリズムは少し気だるい。

緑色の風が身体の上を通り過ぎる。何度も読み返している本の活字は、太陽のヒカリでほとんどぼやけている。Tシャツの背中をチクリと刺す芝生が気になるのに、寝返りを打つことさえも面倒だ。さっと起き上がって真っ白なソフトクリームを買いにいきたいけれど、もう行動力というものが残っていない。雲を眺めているとますますソフトクリームが食べたくなるので、しばらく目をとじることにした。

 

51

ミルクティーンエイジャー。

ハンバーガーショップに彼女と来たのは2回目だった。なぜ彼女が自分に“なついて”くるのか、彼にとって謎だった。クラスで一番可愛いけれど、クラスで一番とっつきにくい彼女は、男子のあいだでアイスガール(氷の女のコ)と呼ばれていた。

彼女はフィッシュバーガーにコーラ、ポテトは彼にもわけてくれるらしい。彼はダブルチーズバーガーとコーラをオーダーした。席に着くと、彼はだるそうにコーラをストローで吸い込む。この瞬間が恐怖だった。シュワシュワと喉の内側が焼け野原になっていく。

彼は炭酸が苦手だった。本当はあまいミルクティーが好きだった。黒目の大きな彼女は彼をじっと見た。(この目つきにやられる)もしかして、コーラを無理して飲んでいるのがバレたのでは?と、彼の手のひらは汗ばんでいる。

50

わたしは成熟を知らない。

自己中心的な脳みそがエンプティになるまで考え抜いた結果、わたしは彼の人生をめちゃくちゃにするほど愛していることを告げるため、原宿をすっぴんで歩いている。妙な歌の宣伝カー、売れ残った服、外国人がキャリーバックを引きずる音、透き通ったりんご飴の赤。目の中のカメラでバシャバシャ撮りながら、1秒でもはやく彼のアパートのドアをあけることをだけを願っている。

49

甘えてくださいと、月が言っている。

彼女はわざと先回りしたり、遠回りしたりして、人の気持ちと“いい距離感”をとることが得意だったゆえに、自分の気持ちを後回しにしてしまうクセがあった。「私は大丈夫」って、ずっと自分に我慢をさせていた。そして満員電車からもみくちゃになりながらホームに降りた瞬間に、それは起きた。あれ?目から飛び出した水は涙?一瞬、自分でも分からないくらいだった。地上に出ると、いつもの街がにじんでみえた。「そろそろ甘えてください」と、月がやさしく彼女を照らしていることに、彼女本人はまだ気づいていない。

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電車は遅れておりますが

ふわっと映像が浮かんで、
こころが6.6グラム(当社比)軽くなる。
ワンシチュエーションでつづる、
シラスアキコのショートストーリー。

自分がジブンにしっくりくる感じの時は、気分がいい。
こころと身体が同じ歩幅で歩いているのがわかる。
いつもこんな感じで生きていきたい。

でも、かなりの確率でイライラと聞こえてくる
「お急ぎのところ、電車が遅れて申し訳ございません」。

そんな時は“ここじゃないどこか”に、
ジブンをリリースしてしまおう。
きっと気持ちの針が、真ん中くらいに戻ってくるから。

シラスアキコ Akiko Shirasu
文筆家、コピーライター Writer, Copywriter

広告代理店でコピーライターとしてのキャリアを積んだ後、クリエイティブユニット「color/カラー」を結成。プロダクトデザインの企画、広告のコピーライティング、Webムービーの脚本など、幅広く活動。著書に「レモンエアライン」がある。東京在住。

color / www.color-81.com
レモンエアライン / lemonairline.com
contact / akiko@color-81.com

◎なぜショートストーリーなのか
日常のワンシチュエーションを切り抜く。そこには感覚的なうま味が潜んでいる。うま味の粒をひとつひとつ拾い上げ文章化すると、不思議な化学反応が生まれる。新たな魅力が浮き上がってくる。それらをたった数行のショートストーリーでおさめることに、私は夢中になる。

イラストレーション
山口洋佑 / yosukeyamaguchi423.tumblr.com