329

あの歌を聴くと。

あの歌を聴くと、身体じゅうが目を覚ます。あの歌を聴くと、あの時の空気に包まれる。あの歌を聴くと、治った傷がズキズキと反応する。あの歌を聴くと、もう一度がんばってみようとチカラが湧いてくる。

*「電車は遅れておりますが」は毎週火曜日に更新しています。

328

ホームワーク。

ベッドから起き上がると、真っ先に湯を沸かす。コーヒー豆を削り出し、香りを確認する。やかんを回しながら、一滴一滴落としていく。この瞬間だけは、頭をからっぽにする。熱いコーヒーとバタつきパンの朝食をすますと、扉を開け庭へ出る。野鳥たちに餌を撒き与え、青空の色を胸いっぱいに吸い込む。今日やること。それは、自分の人生を生き抜くこと。ただそれだけ。

*「電車は遅れておりますが」は毎週火曜日に更新しています。

327

こころの天気予報。

朝からファンデーションのノリもいいし、ラッキーナンバーも見たし、今日はいい日になりそう。自信満々で、胸を張って家をでる。なのに、誰かの小さな言葉がきっかけで、こころの中に暗い雲がたち込めてきて。ポツポツ…ザーーーーーーーーッ。あぁ、なんてことだ。立ち直るための傘もない。次から次に心配事がわいてきて、すべてが上手くいかない気がしてくる。(あれ?雨、上がった)うっすらヒカリがさしてきたのも、小さな言葉がきっかけだった。こころの天気は、言葉によってころころ変わる。

*「電車は遅れておりますが」は毎週火曜日に更新しています。

326

ヒップスターの悲劇。

当時、彼女が羽織っていたツイードのジャケットは、古着屋で選び抜かれた一着であったし、スクールガールをおもわせるボックスタイプのミニスカートは自身による手製のものだった。長い前髪を横に分けてピンで留め、そばかすを活かしたライトなチークにダークなルージュをひき(口紅だけはゲランにこだわった)、童顔の甘さを抑えたシックな印象にまとめ上げていた。彼女はこの街のピップスターだった。無名のカリスマ。誰もが彼女のルックを真似しては叶うことなく、鏡の前で落胆のため息をつくのだった。彼女は金では買えない「センス」という財産を持ち合わせていたのだ。しかし5年後、この街に現れた彼女は大富豪との結婚により大きく様変わりしていた。目を覆いたくなるほど眩し過ぎる時計とジュエリー、一目でわかるブランドのロゴマークが盛大に貼り付いた服とハンドバッグ、ピンピールにはダイヤモンドの粒が埋め込まれていた。高級車か自家用ジェットでしか移動しないため、贅肉も浮き上がっている。眼差しの鋭さは消え去り、トロンとした受動態の気配に変わっていた。彼女は金で買えない「センス」というものを、金によって失ってしまった。あるいは金によって、センスのバランスを崩してしまったのだ。

*「電車は遅れておりますが」は毎週火曜日に更新しています。

325

おやつのイメージ。

旅に出るにも、会社を辞めるにも、デイトをするにも、イメージがなければやらない方がいい。イメージがだいじ。イメージがあればゆたかになれる。イメージがあればぴたりとはまる。無理やりやっても、じぶんの中に落ちていかない。すてきになれない。おやつひとつ食べるのにも、イメージがなければ食べない方がいい。

*「電車は遅れておりますが」は毎週火曜日に更新しています。

324

雑誌をめくる心臓の音。

この日が来るのが待ち遠しかった。いつもの本屋のいつもの場所に、その雑誌は平積みしてあった。熱々のスープを運ぶように、両手で雑誌を扱いお金を払う。さぁ行き先は決まっている。いつもの喫茶店だ。朱色のヴェルヴェット製のソファに座ると、すかさずブラジル(コーヒー)を注文する。一度呼吸を整えて、テラテラと輝く表紙を指の腹でなでる。ゆっくりとページをめくると、サングラスの広告が載っていた。ストライプのパラソルのしたで、リラックスしている男女がいる。さらにめくると、目次が目に飛び込む。あらかじめ内容を知りたくなかったので、目次はスキップした。特集記事がはじまった。「飛行機に住む、それはいいアイデア」というキャッチフレーズ。どうやらいろんな飛行機に乗って、世界中を旅する企画のようだ。パンアメリカン航空の機内食の写真は、興味深かった。ブルーのロゴマークが入った白い箱と、やはりロゴマークが入った白いマグカップ。見開きで贅沢に見せている。左下にレイアウトされている小さな写真で、白い箱の中身がハムサンドであることがわかる。ブラニフ航空のバーカウンターの写真も素晴らしかった。バーテンダーになりきったスチュワードが、グリーンのカクテルを乗客に差し出している。子どもたちはチェリーが乗った白いシェイクを、ストローで飲んでいる。(なにひとつふこうなことはおこらない)そんなイメージが誌面から浮かび上がってくる。目の前にブラジルが届いた。唇を火傷しないように気をつけながら、ひとくちすする。もう一度、深呼吸。一番楽しみにしているのは、辛口映画評論のページだ。シネフィルたちからの支持が真っ二つに分かれる、思い切った評論が大好きなのだ。いったん雑誌を閉じる自分がいる。心臓の音がおさまるまで、しばらくブラジルだけを味わうことにする。

*雑誌の内容は架空のものです。あくまでも理想の雑誌です。

*「電車は遅れておりますが」は毎週火曜日に更新しています。

323

そのとき金魚は言った。

ねこ「おまえはいいよな。一日じゅう冷たい水の中で泳いで。」金魚「あんたこそいいわよ。ソファの上でゴロゴロして。」ねこ「おもちゃで狩の練習してもつまらないだろ。」金魚「私は大きな海で泳いでみたいなぁ。」ねこ「あ、ショウタが帰ってきた!」金魚「なにあの疲れた顔。」ねこ「今夜も残業か。」そのとき金魚は言った。「一番大変なのはニンゲンね。」

*「電車は遅れておりますが」は毎週火曜日に更新しています。

322

感情ジューサーミキサー。

嫉妬も羨望も不安も焦燥も後悔も、ぜんぶまとめてジューサーミキサーに放り込んで、スイッチオン。自分のネガティブ思考がものすごい勢いで粉々になって、ぐるぐると混ざり合っていく。ダークな色をした、ドロドロのジュースができあがるのかな。(怖いもの見たさで興味津々)なのに予想に反して、回転するほどに色が抜けていって。グラスに注いだそれは、澄みきった美しい液体だった。ひと口飲んでみる。冷たくて美味しい水だった。“負の感情だ”と自分自身で嫌っていたけれど、すべてはピュアな成分でできていたのだった。

*「電車は遅れておりますが」は毎週火曜日に更新しています。

321

大人のおとぎ話。

黄色い月のてっぺんまで登ると、めそめそした生き物がおりました。涙をずっと拭いている。近くまでいくとそれは人間でした。300年前に一緒に働いていた元同僚でした。ライバル同士でよく競い合ったっけ。僕は、落ち込み過ぎると逆に愉快になるんだがなぁ、と話しかけました。元同僚は、まだそこまで落ちてない、と言って顔をあげました。こいつ、変わってないな、と思いつつまぁいいさ。何を悲しんでいるのかわからないけど、とりあえず隣に座ってみました。んーんんーんーーー♪僕は歌を知らないから、即興でうたう。相変わらず下手だな、と元同僚は小さく笑いました。ふたりは黙って、いくつもの流れ星を見送りました。僕は彼が抱えている悩みが消えますように、とこころの中で願いごとをした。

*「電車は遅れておりますが」は毎週火曜日に更新しています。

320

身体が家。

家にいるのに、家に帰りたい。家にいるのに、心細い。家にいるのに、そわそわする。そんな感覚をおぼえたら、身体という家を点検してみよう。空気の入れ替えは、できているか。血液という川は、すらすら流れているか。骨という柱は、しっかり伸びているか。筋肉という壁は、しなやかで強いか。そして、真ん中にあるこころは、どんな表情をしているか。身体の住み心地はどうだろう。本当の家は自分の身体だ。身体が家だ。

*「電車は遅れておりますが」で書いたお話「ソーダ水まであとすこし。」が曲になりました。(作詞家デビュー♡照)シュワシュワと聴いてみてくださいね。

https://linkco.re/cHU9qUNy

*「電車は遅れておりますが」は毎週火曜日に更新しています。

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電車は遅れておりますが

ふわっと映像が浮かんで、
こころが6.6グラム(当社比)軽くなる。
ワンシチュエーションでつづる、
シラスアキコのショートストーリー。

自分がジブンにしっくりくる感じの時は、気分がいい。
こころと身体が同じ歩幅で歩いているのがわかる。
いつもこんな感じで生きていきたい。

でも、かなりの確率でイライラと聞こえてくる
「お急ぎのところ、電車が遅れて申し訳ございません」。

そんな時は“ここじゃないどこか”に、
ジブンをリリースしてしまおう。
きっと気持ちの針が、真ん中くらいに戻ってくるから。

シラスアキコ Akiko Shirasu
文筆家、コピーライター Writer, Copywriter

広告代理店でコピーライターとしてのキャリアを積んだ後、クリエイティブユニット「color/カラー」を結成。プロダクトデザインの企画、広告のコピーライティング、Webムービーの脚本など、幅広く活動。著書に「レモンエアライン」がある。東京在住。

color / www.color-81.com
レモンエアライン / lemonairline.com
contact / akiko@color-81.com

◎なぜショートストーリーなのか
日常のワンシチュエーションを切り抜く。そこには感覚的なうま味が潜んでいる。うま味の粒をひとつひとつ拾い上げ文章化すると、不思議な化学反応が生まれる。新たな魅力が浮き上がってくる。それらをたった数行のショートストーリーでおさめることに、私は夢中になる。

イラストレーション
山口洋佑 / yosukeyamaguchi423.tumblr.com