とりあえず走ってみた。
訳もなく彼女が走り出したのは、空が真っ青だった、とかもあるかもしれない。最初は歩いていたのに、早足というより、気がついたらほとんど走っている、になっていた。風がおこり、息がはずみ、風景が動いた。犬とじゃれ合う子供の声や、スケートボードのガラガラという音も、スピードをあげて通り過ぎていく。空気と身体が摩擦して、いまの自分がくっきりと浮かび上がった。走るからわかることもある。けっこういま、自分はしあわせなんだって、彼女は感じた。
訳もなく彼女が走り出したのは、空が真っ青だった、とかもあるかもしれない。最初は歩いていたのに、早足というより、気がついたらほとんど走っている、になっていた。風がおこり、息がはずみ、風景が動いた。犬とじゃれ合う子供の声や、スケートボードのガラガラという音も、スピードをあげて通り過ぎていく。空気と身体が摩擦して、いまの自分がくっきりと浮かび上がった。走るからわかることもある。けっこういま、自分はしあわせなんだって、彼女は感じた。
白より白い生クリームと赤より赤いイチゴのかけらが口の脇からこぼれ落ちないように、夜空を見上げながら合唱している風の格好で、三角のクレープを食しているあの男性はとても無表情だけれど、脳の真ん中あたりは眩しいくらいスパークを繰り返しているのだろうな。う、うまぁーって。もしも、脳の中の風景を、そのまま言葉にしてしまう機能が人間にそなわっていたいら、この世はもっと愉快になるし、もっと痛いのだろうな。
ヒュルルルと冷たい風が吹き荒れているから、彼女は口元をマフラーの中にすっぽりと隠している。そして、ほとんど風に押されながら歩いている。寒い。早く教室に到着したい。友達とバカなことを言い合って笑いたいと願う。通りを曲がり商店街に入ると、風は嘘のように姿を消し、縁側のような暖かさに満ちていた。ヒカリに投影される細かい粉のようなものは、ホコリなのだろうか。ふわふわとダンスをしているようで可愛らしい。彼女の目は糸のように細くなっている。今度は歩きながら、眠気とのたたかいが始まった。
チン!と跳ね上がるトーストを右手で受け止める。小麦粉の初々しい香りに口角が上がる。ナイフにこんもり盛った黄色いバターをザクッと伸ばす。パンの皮膚はグランドキャニオンの岩のようにゴツゴツとしいて、口の中を傷つけるくらいにハードだ。コーヒー豆の熱い涙をサーバーに1滴残らずしぼりきったところで、やや高い位置から肉厚のマグカップへ注ぐ。舞い上がる湯気をすべて吸い込む。
そんな完璧な朝食まで、まだ6時間もある。妄想は止まらない。真っ暗なベッドの中、空っぽの胃が悲鳴を上げている。
彼は一通の封筒を手に歩いている。封筒がシワになるのを恐れ、握りしめないように気をつけながら歩いている。目線の先にポストが見えてくる。毎日視界に入っているはずなのに、初めて見るような存在感だった。(イメージより背が低く、イメージよりぽってりとしていた)
ポストの前に立つ。遠くから部活の声が聴こえてくる。冷たく白い空気の中で、手のひらだけが汗ばんでいる。差し出し口のこっち側とむこう側では、別の地平線があった。彼は手首ごと奥に入れ、指を放す。封筒はどこまでも深く、真っ暗な井戸のような空間に、ひらひらと回転しながら落ちていった。(ような気がした)彼はもう後戻りできない。
彼は家を建てるため、建築士と打ち合わせをしている。そして彼はさっきから同じ言葉を繰り返している。キッチンとキッチンカウンターがあれば、他は何もいらないと。建築士はベッドルームやリビング、クローゼットも必要ですよと反論するが、彼はすべてをキッチンで済ませるので大丈夫と一歩もひかない。こんなお客さんは初めてだ、と小声で建築士が漏らした。(彼にも聞こえた)キッチンでサンドウィッチを作り、煙草を吸い、ウイスキーを飲む。キッチンで手紙を書き、新聞を読み、考え事をする。キッチンで毛布に包まり眠りにつく。生活なんていらない。いや、これが彼の理想の生活なのだ。無言の時が続いた。それなら、とびきりユニークなキッチンを作りましょう。新時代のキッチン、幕開け!というような、と建築士は明るい表情で提案した。彼は首を横に振り、できるだけシンプルなキッチンがいいです、とこたえた。彼と建築士の考えは、水星と火星くらい離れていることだけがわかった。
学校の帰り道、橋の上の真ん中あたりにくると、少年ふたりはどちらからともなく足を止める。そしてしばらくの間、ジョークを言い合っては笑い転げ、この時の終わりを惜しんでいる。一本の冷たい風が、白い団地の方から吹いてくる。
ふたりは橋を渡りきると、別々の道を歩き出す。「バイバーイ!」「バイバーイ!」後ろを振り返らずに叫びあう。やまびこのように響きあう。ありったけの声を出し続ける。それでも、相手の気配はだんだんと小さくなっていく。最後は、森がくっきりと浮かんだオレンジの空に、ゆらゆらと吸い込まれていった。いよいよ夜が降りてくる。
その店はかつて、肉屋だった場所をリノベーションしたのだった。壁を真っ白に塗り、木のカウンターを作り、赤いドアをしつらえて、青いカナリアを飼った。透明の瓶にはいろんな“魅力”が入っていて、1グラムから量り売りをしている。
嵐の午後、若い娘が“小悪魔”を20グラム欲しいと訪ねてきた。店の主人は「15グラムくらいにしときな。小悪魔が悪魔になっちまう。」と言った。「そんなことない、大丈夫。どうしても今夜、小悪魔にならなくちゃいけないの。」と娘。主人は “小悪魔”を10グラムに、こっそりと“素直”を10グラム足して渡した。いつの間にか風はやんでいた。カナリアが美しい声で鳴いた。
シェフの気まぐれサラダは、いつもベビーリーフとゆで卵と生ハムが盛られたもので、シェフの気まぐれはまったく入っていないし。本日のキッシュは、ほうれん草とベーコンのキッシュと一年じゅう決まっていたけれど。彼は今日もこの喫茶店に来てしまった。そして「シェフの気まぐれサラダと、本日のキッシュと、ホットコーヒーをください。」と、正式名称をウエイトレスに告げるのであった。
テーブルの脇には観葉植物が見事に育っていて、葉っぱの艶はまるでレプリカのような勢いがあり、彼は毎回葉っぱを手で触り確認する癖があった。(そして今日も確認した)BGMはだいたいポール・モーリアだった。氷が3個浮かんだ水を口に含む。料理が来るまでのあいだ、彼は午後の仕事の手順を考えることにした。BGMがビートルズに変わっていることに、しばらくして気づく。シェフ(というか喫茶店の主人)は、有線のチャンネルを入れ間違えたのだろうか。斜め前のご婦人がコップの水をこぼした。氷が床に落ちてキラキラと輝いている。
美術館を出ると、雨は大降りになっていた。目の前には広い公園が続いていて、ふたりはどうするか一瞬戸惑ったが、顔を見合わせると同時に走り出した。男性は女性の腕を軽く持っていたが、それも勢いでふりほどくかたちになった。真っ直ぐに刺す雨は、女性のピーコートの色を変えていく。遊園地のような悲鳴が、いつしか弾ける笑い声になっていく。水たまりを飛び越えずに、ジャブジャブと鳴らした。森の匂いが深々と立ちあがる。大きな木の下に着いたときは、ふたりは恋人の一歩目を踏み入れたらしかった。
ふわっと映像が浮かんで、
こころが6.6グラム(当社比)軽くなる。
ワンシチュエーションでつづる、
シラスアキコのショートストーリー。
自分がジブンにしっくりくる感じの時は、気分がいい。
こころと身体が同じ歩幅で歩いているのがわかる。
いつもこんな感じで生きていきたい。
でも、かなりの確率でイライラと聞こえてくる
「お急ぎのところ、電車が遅れて申し訳ございません」。
そんな時は“ここじゃないどこか”に、
ジブンをリリースしてしまおう。
きっと気持ちの針が、真ん中くらいに戻ってくるから。
広告代理店でコピーライターとしてのキャリアを積んだ後、クリエイティブユニット「color/カラー」を結成。プロダクトデザインの企画、広告のコピーライティング、Webムービーの脚本など、幅広く活動。著書に「レモンエアライン」がある。東京在住。
color / www.color-81.com
レモンエアライン / lemonairline.com
contact / akiko@color-81.com
◎なぜショートストーリーなのか
日常のワンシチュエーションを切り抜く。そこには感覚的なうま味が潜んでいる。うま味の粒をひとつひとつ拾い上げ文章化すると、不思議な化学反応が生まれる。新たな魅力が浮き上がってくる。それらをたった数行のショートストーリーでおさめることに、私は夢中になる。
イラストレーション
山口洋佑 / yosukeyamaguchi423.tumblr.com