49

甘えてくださいと、月が言っている。

彼女はわざと先回りしたり、遠回りしたりして、人の気持ちと“いい距離感”をとることが得意だったゆえに、自分の気持ちを後回しにしてしまうクセがあった。「私は大丈夫」って、ずっと自分に我慢をさせていた。そして満員電車からもみくちゃになりながらホームに降りた瞬間に、それは起きた。あれ?目から飛び出した水は涙?一瞬、自分でも分からないくらいだった。地上に出ると、いつもの街がにじんでみえた。「そろそろ甘えてください」と、月がやさしく彼女を照らしていることに、彼女本人はまだ気づいていない。

48

深夜のエアポート・ポートレイト。

空港にはほとんどひと気がなかった。さっきから最終便の案内が、繰り返し聞こえてくる。軽食を食べられるレストランや売店は、どこもシャッターが降りていた。(彼は夕食を食べてこなかったことを少し後悔した)真っ赤な制服を着て、同じ髪形をしたキャビンアテンダントたちが早足で横切っていく。何語かはわからなかったが「今夜何食べる?」と、言い合っている気がした。彼は早く飛行機に乗り込んで、さっさと離陸したいとおもった。異国でゼロから始める自分と、この空港のゆったりしたムードがとてもチグハグな気がしたからだ。足元のコンバースはおろしたてだった。彼は急に気恥ずかしくなった。さっさと汚したいとおもった。

47

夕方のさつまいもは揚げたてだった。

彼女がキッチンから離れないのは、さつまいもの天ぷらを狙っているからだ。白い衣をくぐったさつまいもは、母親の手でゆっくりと温まった油の中に投入される。じゅわじゅわと景気のいい音が弾けだす。彼女はつま先立って、この瞬間を見逃さない。こんがり色になったさつまいもは、新聞紙の上に並べられる。油は汗のように染みていく。彼女はひとつをつまもうとするが、熱すぎて指から離してしまう。姉が塾から帰ってきたようだ。お風呂場からは、勢いよく水をはる音が聞こえてくる。

46

鏡の前からもうデイトは始まっている。

今夜は恋人に会いにいくから、この街に雨を降らせ夕刻から曇り空にする必要があった。雨上がりは自分の肌と睫毛に、たっぷりと艶をつくることを知っているから。そしてその通りになった。(彼女は天候の調整もできるのだ)メイクアップを終えると、スリップ一枚で大きな鏡の前に立つ。待ち合わせたレストランの壁の色は、たしか薄いパープルだった。とすれば、ドレスは真紅よりほとんどホワイトに近いレモンイエローの方が美しく映えそうだ。ふと、初めてのデイトがフラッシュバックする。16歳の彼女は、ギンガムチェックのワンピースだった。

45

皮膚の下の大合唱。

おばあちゃん家の応接間のドアをそっと開ける。足元には赤い絨毯が広がっている。外は晴れているのに、雨の日のような匂いがした。壁には大きな本棚。目当ては一番上にある百科事典だ。彼はソファーの上に乗り、やっとの思いで手に取る。絨毯の上にあぐらをかき、重い表紙を開く。“野生の動物”のページは何度も見た。百獣の王、ライオンのたてがみはオスにしかないらしい。次に“人体の神秘”というページを開く。男性の裸の絵の上には透明なフィルムが重なるようになっており、内臓や血管、筋肉などがぎっしりと描かれていた。人間の皮膚の下には、まったく別の世界が存在していた。家族の悲鳴にも似た笑い声が聞こえてくる。初めて会う他人のように感じた、家族も自分も。

44

わたしはアシスタント。

エレヴェーターよりも階段の方が早いわ、と目で合図をおくったボスは、待ち人の列からはずれ薄暗い階段を登りだした。彼女も後に続く。安全ピンくらい細いヒールはボスのくるぶしを支え、階段を上がるたびにアキレス腱がくっきりと浮かびあがる。この後のミーティングが大荒れになることは、容易に想像できた。女性ふたりのヒールの音が揃って響きだしたから、彼女はわざとタイミングをずらした。今はアシスタントだけれど、このボスよりももっとしなやかに、もっとチャーミングに輝く日がくることを彼女は知っている。遠くでサイレンが鳴っている。

43

ベッドに入る前の儀式。

漆黒の夜空を一本のキャンドルが照らすと、今日の終わりの合図。ビターオレンジの香りが、ふわりと寝室に浮かび上がる。彼女はバスローブを脱いで、シルクの寝巻をまとう。素肌が一瞬ひんやりする感じを楽しむ。ピンと張った真っ白なシーツと、薄茶色のブランケットのあいだに、スローモーションを意識して滑り込む。眠りの世界に落ちていきたい自分と、あと5分だけ考えごとをしたい自分が引っ張りあう。キャンドルにふっと息を吹きかけたら、夢の世界の勝ち。このささやかなたたかいが最後の儀式。

42

スタート15秒前、空気は透明だった。

今朝、目が覚めてからずっと、彼は布団の中で今日のマラソン大会のイメージを何度も繰り返していたから、スタート地点についた今、どこか懐かしいような妙な気分さえしてくるのだった。同じ学年の全男子が集まり、我こそが前へ前へと最前列にせり出してくる。彼はわざと2列目のポジションを狙いたくて、前へ出たり後ろに下がったりして調整をした。いよいよ体育の先生が黒いピストルを持って現れた。誰かが「ひゃー!」とおどけた声を出した。緊迫した空気を壊したかったらしい。(でもその効果はなかった)先生の手がまっすぐに頭上にあがると、パン!と乾いた音が鳴った。足は羽のように軽く、自分のものじゃないみたいだった。友達の半ズボンからでた膝裏のくぼみが、緊張した顔のようだ、とおもった。

 

41

リボンはわたしに。

彼女はこころが少々くたびれていたので、夕食は自分を甘やかすことに決めていた。駅の改札を出ると、まっすぐリカーショップに立ち寄る。ワインが並ぶ棚の前に立ち、1本の赤のチリワインを選び取る。いつものワインより高価だったが、エチケットのデザインを見て直感で決めた。レジに進むとふくよかな女性店員が「贈り物ですか?」と歌うように尋ねた。彼女の口は「はい」と答えてしまう。(彼女自身が驚いた)リボンはピンクとシルバーで迷ったが、シルバーにした。女性店員のふくよかな手が、シルバーのリボンをていねいに結んでいく。今夜のワインが自分へのプレゼントになっていく。頭の後ろの方にある重いものが、すーっと抜けていくのを感じた。

40

渡り廊下は旅立ちの滑走路。

学校の渡り廊下に、小さな人だかりができている。転校するあのことの別れを惜しんで、クラスメイトたちは手紙を渡したり、一緒に写真を撮ったりしている。中には泣いている女子もいる。あのこはどこか寂しそうに笑うけど、今日はいつもより元気そうに見えた。(僕にはそれが悲しかった)黒い髪の毛を二つに結っているのが好きだった。毎日ゴムの色が違うのも気づいていた。僕は制服のポケットに手を入れて、くるりと振り返るとまっすぐ教室の方に歩き出した。細い雨が降ってきた。あくびをするふりをして、何度も目をこすった。

 

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電車は遅れておりますが

ふわっと映像が浮かんで、
こころが6.6グラム(当社比)軽くなる。
ワンシチュエーションでつづる、
シラスアキコのショートストーリー。

自分がジブンにしっくりくる感じの時は、気分がいい。
こころと身体が同じ歩幅で歩いているのがわかる。
いつもこんな感じで生きていきたい。

でも、かなりの確率でイライラと聞こえてくる
「お急ぎのところ、電車が遅れて申し訳ございません」。

そんな時は“ここじゃないどこか”に、
ジブンをリリースしてしまおう。
きっと気持ちの針が、真ん中くらいに戻ってくるから。

シラスアキコ Akiko Shirasu
文筆家、コピーライター Writer, Copywriter

広告代理店でコピーライターとしてのキャリアを積んだ後、クリエイティブユニット「color/カラー」を結成。プロダクトデザインの企画、広告のコピーライティング、Webムービーの脚本など、幅広く活動。著書に「レモンエアライン」がある。東京在住。

color / www.color-81.com
レモンエアライン / lemonairline.com
contact / akiko@color-81.com

◎なぜショートストーリーなのか
日常のワンシチュエーションを切り抜く。そこには感覚的なうま味が潜んでいる。うま味の粒をひとつひとつ拾い上げ文章化すると、不思議な化学反応が生まれる。新たな魅力が浮き上がってくる。それらをたった数行のショートストーリーでおさめることに、私は夢中になる。

イラストレーション
山口洋佑 / yosukeyamaguchi423.tumblr.com