ベッドに入る前の儀式。
漆黒の夜空を一本のキャンドルが照らすと、今日の終わりの合図。ビターオレンジの香りが、ふわりと寝室に浮かび上がる。彼女はバスローブを脱いで、シルクの寝巻をまとう。素肌が一瞬ひんやりする感じを楽しむ。ピンと張った真っ白なシーツと、薄茶色のブランケットのあいだに、スローモーションを意識して滑り込む。眠りの世界に落ちていきたい自分と、あと5分だけ考えごとをしたい自分が引っ張りあう。キャンドルにふっと息を吹きかけたら、夢の世界の勝ち。このささやかなたたかいが最後の儀式。
漆黒の夜空を一本のキャンドルが照らすと、今日の終わりの合図。ビターオレンジの香りが、ふわりと寝室に浮かび上がる。彼女はバスローブを脱いで、シルクの寝巻をまとう。素肌が一瞬ひんやりする感じを楽しむ。ピンと張った真っ白なシーツと、薄茶色のブランケットのあいだに、スローモーションを意識して滑り込む。眠りの世界に落ちていきたい自分と、あと5分だけ考えごとをしたい自分が引っ張りあう。キャンドルにふっと息を吹きかけたら、夢の世界の勝ち。このささやかなたたかいが最後の儀式。
今朝、目が覚めてからずっと、彼は布団の中で今日のマラソン大会のイメージを何度も繰り返していたから、スタート地点についた今、どこか懐かしいような妙な気分さえしてくるのだった。同じ学年の全男子が集まり、我こそが前へ前へと最前列にせり出してくる。彼はわざと2列目のポジションを狙いたくて、前へ出たり後ろに下がったりして調整をした。いよいよ体育の先生が黒いピストルを持って現れた。誰かが「ひゃー!」とおどけた声を出した。緊迫した空気を壊したかったらしい。(でもその効果はなかった)先生の手がまっすぐに頭上にあがると、パン!と乾いた音が鳴った。足は羽のように軽く、自分のものじゃないみたいだった。友達の半ズボンからでた膝裏のくぼみが、緊張した顔のようだ、とおもった。
彼女はこころが少々くたびれていたので、夕食は自分を甘やかすことに決めていた。駅の改札を出ると、まっすぐリカーショップに立ち寄る。ワインが並ぶ棚の前に立ち、1本の赤のチリワインを選び取る。いつものワインより高価だったが、エチケットのデザインを見て直感で決めた。レジに進むとふくよかな女性店員が「贈り物ですか?」と歌うように尋ねた。彼女の口は「はい」と答えてしまう。(彼女自身が驚いた)リボンはピンクとシルバーで迷ったが、シルバーにした。女性店員のふくよかな手が、シルバーのリボンをていねいに結んでいく。今夜のワインが自分へのプレゼントになっていく。頭の後ろの方にある重いものが、すーっと抜けていくのを感じた。
学校の渡り廊下に、小さな人だかりができている。転校するあのことの別れを惜しんで、クラスメイトたちは手紙を渡したり、一緒に写真を撮ったりしている。中には泣いている女子もいる。あのこはどこか寂しそうに笑うけど、今日はいつもより元気そうに見えた。(僕にはそれが悲しかった)黒い髪の毛を二つに結っているのが好きだった。毎日ゴムの色が違うのも気づいていた。僕は制服のポケットに手を入れて、くるりと振り返るとまっすぐ教室の方に歩き出した。細い雨が降ってきた。あくびをするふりをして、何度も目をこすった。
まだ言葉というものを使えないので会話はできないけれど、わたしはいろんなことがわかっている。抱っこされている時、下から見上げるママの顔。黙っていても、ママがどんな気持ちでいるのか、なんとなくわかる。気分がいいのか、泣きそうなのか、わかる。そして今、バスの一番後ろの席で、ママのいい匂いを感じながら、バスの揺れを楽しんでいる。ママはあめ玉みたいに光るピンクのボタンを押すと、小さくため息をついた。ママがゆっくり立ち上がったとき、わたしは傘が足元に残されていることに気がついた。注意をうながすために「ほぉわーーーん!!」と泣いた。作戦成功。バスから降りると、雨は上がっていた。ヒカリがまぶしくて目があけられない。
真夜中に窓をあけると、街は真っ白な雪でコーティングされていた。どうやら地球は一時停止ボタンを押したらしい。人が暮らしている気配が消えた。音も、色も、完璧に消えた。深呼吸してやろうと、腹の底から空気を吸い込もうとしたが、半分のところで止めてしまう。地球の別の顔をうっかり見てしまった“遠慮のようなもの”から、それができなかったのだ。さっき淹れたブラックコーヒーの香りだけが、生活者としてのリアルを保っている。しんとした地球に、間借りさせてもらっている自分が、ただ佇んでいる。
手の中にずんと重みを覚えるシルバーのフォークに、スパゲッティを巻きつけている。オリーブオイルで“てらん”と輝いている麺には、バジルのみじん切りが細かく張りついている。フォークを時計まわりに回転させ、皿から少しずつ浮かせていくと、口に入らないくらいまで麺を集めてしまった。次は反省して2、3本の麺を集めようとすると、麺は “ぷるり”と逃げていく。まるで、真っ暗な、トンネルのような口の中に入るのを嫌がるように。そしてようやく、いい具合に麺を巻きつけたとき、ドアの呼び鈴が鳴った。インターフォンの画面には、昔別れた彼女が映っていた。(その後、彼はスパゲッティを食べたでしょうか?)
彼女は“なんとなく”をわりに認めている。だから、いつもの帰り道じゃなくて、なんとなく右へ曲がりたくなったから、素直にそれに従う。なんとなくケータイを見ると、22:22。ゾロ目。あれ、少しうれしい。なんとなくコンビニに立ち寄ると、子供の頃食べていた菓子パンの復刻版を発見。もちろん買う。なんとなく月を見ると、いつもより明るいような気がした。なんとなく、いいことありそ、とおもった。
訳もなく彼女が走り出したのは、空が真っ青だった、とかもあるかもしれない。最初は歩いていたのに、早足というより、気がついたらほとんど走っている、になっていた。風がおこり、息がはずみ、風景が動いた。犬とじゃれ合う子供の声や、スケートボードのガラガラという音も、スピードをあげて通り過ぎていく。空気と身体が摩擦して、いまの自分がくっきりと浮かび上がった。走るからわかることもある。けっこういま、自分はしあわせなんだって、彼女は感じた。
白より白い生クリームと赤より赤いイチゴのかけらが口の脇からこぼれ落ちないように、夜空を見上げながら合唱している風の格好で、三角のクレープを食しているあの男性はとても無表情だけれど、脳の真ん中あたりは眩しいくらいスパークを繰り返しているのだろうな。う、うまぁーって。もしも、脳の中の風景を、そのまま言葉にしてしまう機能が人間にそなわっていたいら、この世はもっと愉快になるし、もっと痛いのだろうな。
ふわっと映像が浮かんで、
こころが6.6グラム(当社比)軽くなる。
ワンシチュエーションでつづる、
シラスアキコのショートストーリー。
自分がジブンにしっくりくる感じの時は、気分がいい。
こころと身体が同じ歩幅で歩いているのがわかる。
いつもこんな感じで生きていきたい。
でも、かなりの確率でイライラと聞こえてくる
「お急ぎのところ、電車が遅れて申し訳ございません」。
そんな時は“ここじゃないどこか”に、
ジブンをリリースしてしまおう。
きっと気持ちの針が、真ん中くらいに戻ってくるから。
広告代理店でコピーライターとしてのキャリアを積んだ後、クリエイティブユニット「color/カラー」を結成。プロダクトデザインの企画、広告のコピーライティング、Webムービーの脚本など、幅広く活動。著書に「レモンエアライン」がある。東京在住。
color / www.color-81.com
レモンエアライン / lemonairline.com
contact / akiko@color-81.com
◎なぜショートストーリーなのか
日常のワンシチュエーションを切り抜く。そこには感覚的なうま味が潜んでいる。うま味の粒をひとつひとつ拾い上げ文章化すると、不思議な化学反応が生まれる。新たな魅力が浮き上がってくる。それらをたった数行のショートストーリーでおさめることに、私は夢中になる。
イラストレーション
山口洋佑 / yosukeyamaguchi423.tumblr.com