69

細胞の総入れかえは一瞬で。

昨日までの自分の中身は、いったい何の成分で出来ていたのだろう。パソコンのキーボードを押すことやら、美容院の予約をすることやら、ヨーグルトの蓋を用心深く開けることなど、そうそうこころを使っているとはおもえない。何を考えて生きていたのだろう。昨日までの自分が別人になった。

今日、あのひとが目の前に現れた。そして身体じゅうの細胞がすべて入れかわってしまうのに1秒もかからなかった。あのひとのまつ毛やら、指の関節の感じやら、声の色やらが、彼女を(勝手に)しあわせにした。まあたらしい細胞は、とても軽やかで艶々としていた。

彼女は電車のドアが閉まるオトさえも美しく聴くことができた。駅に着くまで、たっぷりあのひとのことを考えられる。まあたらしい自由に、めまいがするほどだった。地上に出るとあたらしい夜空が広がっているはずだ。あのひとが細胞に染み込んだ彼女は、世の中のすべてが初めてみるものに変わっていた。

 

*「電車は遅れておりますが」は毎週火曜日に更新しています。

 

68

夏が終わらないうちに、終わってしまうもの。

駅の改札を出た右側、柱の影に彼の顔を見つけた瞬間、夏が始まった。まだ折り目のついていない、まっさらな夏。初めての待ち合わせ。ふたりが歩き出した瞬間、夏がうごきだした。

「どこいこっか」彼の口角は上がっていて、彼女のノースリーブの腕は美しかった。もう夕方なのに、太陽はなかなか傾いてくれなかった。

夏のてっぺんの日、ふたりは映画館から出てきた。映画の感想を交わしながら、甘いカクテルを味わった。なまあたたかい夜はどこまでも透明で、森の香りがした。

夏が遠い目をした日、ふたりは歩道橋を渡っていた。「用事があるから」彼女は彼の用事の中身を聞けなかった。

夏の後ろ姿をみた日、彼女は6枚切りの食パンを買った。一緒に食べたクロワッサンの棚は、見るのもつらかった。

パンの袋を指に引っかけて、帰り道を歩いた。「まだ蝉、鳴いているんだ」彼女の夏はとっくに終わってしまったのに。

 

 

*「電車は遅れておりますが」は毎週火曜日に更新しています。

67

脳のお腹が空いている。

彼女は家の中の本棚の前で“立ち読み”をしている。

お腹を空かせた脳が、何か新しい刺激を欲しがっている。

でも。あれほど夢中になった純文学も、

あれほど憧れたモデルのスタイルブックも、

たちまち大金持ちになれるハウツー本も、

まったくトキめくことができない。

パラパラとページをめくっては本棚に戻す、をずっと繰り返している。

彼女はあきらめて冷蔵庫をあけ、プリンの残りを胃袋に入れる。

財布を持って外へ出ると、細い三日月が浮かんでいた。

そろそろ本屋に、脳の栄養を仕入れに行くタイミングらしい。

 

 

*「電車は遅れておりますが」は毎週火曜日に更新しています。

 

66

フィッティングルームで洋服と格闘しているみなさんへ。

上空からおしゃべりしてもよいですか。

(私は雲ひとつない空を、ヘリコプターで移動しています。)

 

もう立派な大人たちが、普段とは違う、

無防備であどけない顔をしている場所ってどこだと思いますか。

 

それはデパートメントストアのフィッティングルームですよ。

いまパイナップル柄のワンピースから顔をだしたあなたもそう。

スキニーなパンツのジッパーが上がらずに、

ため息をついているあなたもね。

後ろ姿のラインを一生懸命確認しているあなたもね。

会社でプレゼンテーションをしている時も素敵だけれど、

鏡の前でひとりっきり、真剣そのもののあなたはとてもチャーミング。

(誰にも見られていない、素のあなただ!)

 

あのね10秒後にフィッティングルームの屋根がパカッと開きますので、

その瞬間私に手を振ってみてくださいね。

ヘリコプターから私も手を振りますね。

さぁ、1、2、3…。

 

そして世界中のフィッティングルームパーティーが、

1分間だけ行われた。

 

 

 

*「電車は遅れておりますが」は毎週火曜日に更新しています。

65

キッチンプロポーズ。

ビールグラスを冷やすのは彼の担当。おつまみを可愛く盛るのは彼女の担当。メインの肉を焼くのは彼の担当。最初に酔っ払うのは彼女の担当。3杯目から(やっと)饒舌になるのは彼の担当。どこか旅行に行きたいと言い出すのは彼女の担当。サラダの残りを食べるのは彼の担当。パリに行きたい!と叫ぶのは彼女の担当。どうせだったら新婚旅行にする?とつぶやくのは彼の担当。それって結婚するってこと?と聞くのは彼女の担当。うん!と頷くのは彼の担当。いいね!とニンマリするのは彼女の担当。何杯目かわからないビールをグラスに注ぐのは彼の担当。乾杯するのはふたりの担当。うとうと眠くなるのは彼女の担当。食器の後片付けは彼の担当。ソファーで夢を見るのは彼女の担当。

64

ボーリング場は恋を失う場所じゃない。

ザラッとすりむいた感情の傷に絆創膏も貼らないまま、11ポンドのボールを力まかせに滑らせる。彼女はたった今、失恋をしてしまった。オレンジに輝くボールはヨロヨロと回転しながら、やっとのことで2本のピンを倒す。

彼はあの娘のことが好きなんだ。それがうっかりわかってしまった。アイドルグループの懐かしいヒット曲が、大音量で鳴り響いている。大人数で盛り上がるレーンで、彼女は穴に落ちてしまった。10本のピンを派手に弾き飛ばしたのは彼だった。あの娘はハイタッチを求めている。

“あぁこの先永久に、私はボーリング場に来ると、今日のことを思い出すだろう”。彼女はおもった。

 

*「電車は遅れておりますが」は、毎週火曜日に更新しています*

 

 

63

カクテルに太陽をひとさじ。

オレンジの夕陽に淡いピンクが滲んできた頃、彼女はギャングのスピリッツを抱えて黒いドアをあける。この店のアルコールをすべて飲み干してあげる!という具合に。

いけない飲み物くださいな、とバーテンダーに合図を送ると出てきたのは “ロングアイランド・アイスティ”。もちろん紅茶など一滴も入っていない。なにしろウオッカ、ラム、テキーラ、ジンといった、ありったけのスピリッツをごちゃ混ぜにして、甘いコーラで仕上げたタチの悪いカクテルだ。(口あたりが異常なほど良いから危険)

彼女は冷えたグラスを天井に近い窓にかざす。「昼間はすごい熱でさんざんイジメてくれてありがとう」と、こころの中でウインクする。今日最後の太陽は全面的に降参して、ロングアイランド・アイスティの中にとろりと溶けていった。乾杯。

 

62

叔母の家に泊まりにいった。

「バスタオルは上から2番目の引き出しに入っているわよー」と、叔母はキッチンから叫んでいる。ふかふかのタオルが2列になって眠っていた。そっとタオルを顔にあててみる。いい匂い。柔軟剤の残り香かと思いきや、そうじゃないという。未使用の石鹸を、引き出しの中に忍ばせているからだという。風呂から上がって冷たいサイダーを飲んでいるときに、叔母から聞いた話だ。

 

61

地球の見張り役。

ベッドから脚をおろすと、板張りの温度はほぼ足裏と同じくらいだった。朝まで眠り溶ける睡眠力を持った彼が、途中で目を覚ますのは珍しい。すべては夏の夜の仕業だった。家の中は真っ暗だし、まぶたも半分しかあいていないことから、用心深く歩こうとする自分自身に感心する。

キッチンに入ると、ブーンと鈍くて低い電子音がその場を仕切っていた。冷蔵庫のドアをあけると、青白い灯りと冷気があふれ出てくる。彼はその心地よさに一瞬目を閉じる。家の中で一番冷えた小さな部屋に、ずるずると入り込んで眠れたらどんなに幸せだろう。

冷凍庫にはキューブ型の氷がたっぷり出来ていた。彼は指で氷をつかむと、透明のグラスにわざと少し高い位置からカランカランと音をたてて入れた。次に水道水を細く注ぐ。氷と氷がくっつき、ミシッと鳴き声を発する化学反応を楽しむ。作りたての氷水を、一気に身体の中に流し込む。渋滞している道路を、スピードを上げて駆け抜けるイメージが湧いた。夏の夜の自分を、じっと見張っていてくれた冷蔵庫をふと振り返る。

60

人生の初心者になってしまった。

大げんかが勃発したのは夜中の11時22分だった。僕は危険を察知すると “いま何時であるか”を確認する癖があるのだ。夕飯を食べ終えた後くらいから彼女の機嫌は怪しかった。コーヒーをすすりながら愛聴盤の一曲(だけ)を聞き、食後の仕上げをしようと思ったとき「私の前でジャズはやめて!」と叫ばれた。

そして風呂からあがってバスタオルを一瞬だけソファーの上に置いたら「湿気がつくからやめて!」と、今度はバスタオルを放り投げられた。一番嫌いな女性の行動、それは叫ぶこと、ものを投げること。僕の怒り我慢キャパシティは完全に崩壊してしまった。戦いは午前1時18分まで続いた。

朝、目がさめると彼女はベッドにいなかった。リビングに行くとコーヒーの香り、そして「パン焼く?」と聞かれた。しかも友好的な目つきでだ。僕は「うん」と、ものすごく慎重に、かつ普段通りにこたえた。彼女は何を考えているのだろうか。まさか夜中のけんかを覚えていないわけはないはずだ。窓の外をみると、嘘みたいに晴れている。

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電車は遅れておりますが

ふわっと映像が浮かんで、
こころが6.6グラム(当社比)軽くなる。
ワンシチュエーションでつづる、
シラスアキコのショートストーリー。

自分がジブンにしっくりくる感じの時は、気分がいい。
こころと身体が同じ歩幅で歩いているのがわかる。
いつもこんな感じで生きていきたい。

でも、かなりの確率でイライラと聞こえてくる
「お急ぎのところ、電車が遅れて申し訳ございません」。

そんな時は“ここじゃないどこか”に、
ジブンをリリースしてしまおう。
きっと気持ちの針が、真ん中くらいに戻ってくるから。

シラスアキコ Akiko Shirasu
文筆家、コピーライター Writer, Copywriter

広告代理店でコピーライターとしてのキャリアを積んだ後、クリエイティブユニット「color/カラー」を結成。プロダクトデザインの企画、広告のコピーライティング、Webムービーの脚本など、幅広く活動。著書に「レモンエアライン」がある。東京在住。

color / www.color-81.com
レモンエアライン / lemonairline.com
contact / akiko@color-81.com

◎なぜショートストーリーなのか
日常のワンシチュエーションを切り抜く。そこには感覚的なうま味が潜んでいる。うま味の粒をひとつひとつ拾い上げ文章化すると、不思議な化学反応が生まれる。新たな魅力が浮き上がってくる。それらをたった数行のショートストーリーでおさめることに、私は夢中になる。

イラストレーション
山口洋佑 / yosukeyamaguchi423.tumblr.com