29

夕陽の歩幅。

学校の帰り道、橋の上の真ん中あたりにくると、少年ふたりはどちらからともなく足を止める。そしてしばらくの間、ジョークを言い合っては笑い転げ、この時の終わりを惜しんでいる。一本の冷たい風が、白い団地の方から吹いてくる。

ふたりは橋を渡りきると、別々の道を歩き出す。「バイバーイ!」「バイバーイ!」後ろを振り返らずに叫びあう。やまびこのように響きあう。ありったけの声を出し続ける。それでも、相手の気配はだんだんと小さくなっていく。最後は、森がくっきりと浮かんだオレンジの空に、ゆらゆらと吸い込まれていった。いよいよ夜が降りてくる。

 

28

魅力の量り売り。

その店はかつて、肉屋だった場所をリノベーションしたのだった。壁を真っ白に塗り、木のカウンターを作り、赤いドアをしつらえて、青いカナリアを飼った。透明の瓶にはいろんな“魅力”が入っていて、1グラムから量り売りをしている。

嵐の午後、若い娘が“小悪魔”を20グラム欲しいと訪ねてきた。店の主人は「15グラムくらいにしときな。小悪魔が悪魔になっちまう。」と言った。「そんなことない、大丈夫。どうしても今夜、小悪魔にならなくちゃいけないの。」と娘。主人は “小悪魔”を10グラムに、こっそりと“素直”を10グラム足して渡した。いつの間にか風はやんでいた。カナリアが美しい声で鳴いた。

27

人はどこまでプレーンになれるか。

シェフの気まぐれサラダは、いつもベビーリーフとゆで卵と生ハムが盛られたもので、シェフの気まぐれはまったく入っていないし。本日のキッシュは、ほうれん草とベーコンのキッシュと一年じゅう決まっていたけれど。彼は今日もこの喫茶店に来てしまった。そして「シェフの気まぐれサラダと、本日のキッシュと、ホットコーヒーをください。」と、正式名称をウエイトレスに告げるのであった。

テーブルの脇には観葉植物が見事に育っていて、葉っぱの艶はまるでレプリカのような勢いがあり、彼は毎回葉っぱを手で触り確認する癖があった。(そして今日も確認した)BGMはだいたいポール・モーリアだった。氷が3個浮かんだ水を口に含む。料理が来るまでのあいだ、彼は午後の仕事の手順を考えることにした。BGMがビートルズに変わっていることに、しばらくして気づく。シェフ(というか喫茶店の主人)は、有線のチャンネルを入れ間違えたのだろうか。斜め前のご婦人がコップの水をこぼした。氷が床に落ちてキラキラと輝いている。

26

駆け抜ける方向。

美術館を出ると、雨は大降りになっていた。目の前には広い公園が続いていて、ふたりはどうするか一瞬戸惑ったが、顔を見合わせると同時に走り出した。男性は女性の腕を軽く持っていたが、それも勢いでふりほどくかたちになった。真っ直ぐに刺す雨は、女性のピーコートの色を変えていく。遊園地のような悲鳴が、いつしか弾ける笑い声になっていく。水たまりを飛び越えずに、ジャブジャブと鳴らした。森の匂いが深々と立ちあがる。大きな木の下に着いたときは、ふたりは恋人の一歩目を踏み入れたらしかった。

25

あらかじめ用意されている、いいこと。

洗いあがったシーツはたっぷりと水分を含んでいて、重たさがあった。背丈くらいある銀色のバーに、放り投げるように覆い被せる。空はどこまでも抜けていて、太陽の方向は眩しくて直視できない。風が吹くたび、シーツはじゃれるように自分の顔を丸め込む。冷たいのに。赤みがさした葉っぱの上に一羽のスズメがとまり、首をかしげている。スズメは無表情で(もちろん)気持ちは読み取れなかった。今夜は最低でも嬉しいことがふたつある。ひとつは、太陽の直火で仕上げたシーツに飛び込むこと。もうひとつは、ねこのまねをして眠ること。

24

服パトロール。

あぁ服がない。服がないから買いに行こう、と思った瞬間、別の考えが浮かぶ。彼女はクローゼットの中をひっくり返して、着られる服が本当にないのかを点検してみることにした。今はボーダーの気分じゃないし、今は黒いタートルネックの気分じゃないし、今はチェックのワンピースの気分じゃないし、今はライダースジャケットの気分じゃない。去年まで喜んでコーディネートしていた服が、ことごとく気分じゃなくなっている。大きな服の山ができてしまった。予想通りだった。自分は何かが変わってしまったのだろうか。これまで好きだったものが、味のなくなったガムみたいに何も感じなくなっている。一番奥から、グレーのVネックセーターがでてきた。一度も袖を通したことのないものだった。今年の春先、そうあれは英会話レッスンの初日、英語を自由にあやつる自分を想像して、嬉しくて衝動買いしたものだった。しかし英会話レッスンは3回分のチケットを使い切ったところでフェイドアウトし、グレーのVネックセーターは記憶の引き出しから消えていた。ふーっ。ぺたりと座り込む。時間はビュンビュン、新幹線からの風景のように流れていく。彼女は服を買いに行くことをやめた。このグレーのVネックセーターから、もう一度始めようとおもった。大げさかもしれないけれど、もう一度人生をやり直そうと。そして英会話も。

23

それでも時間は私にやさしい。

細い手首に巻き付いた狂った腕時計を信用しないかわりに、彼女の時間に対する考え方は彼女自身を幸福にした。こうして地下鉄に揺られているあいだも、冷蔵庫に眠っている卵は確実に劣化がはじまっており、つり革につかまった自分の美しい腕も、数十年後には無数の線が生まれてくるのだ。万歳。時は進む。実験は続く。(愉快な実験)この瞬間も終わり、終わりが続いていく。真っ暗な5時15分に目覚めたとき、朝なのか夕方なのかわからなかった。床に落とす足裏はひんやりと冷たく、カーテンから覗く空には星があった。テレヴィをつけるのをためらったのは、ニュースキャスターの様子が“地球は今何時か”を伝えてしまうから、そのままにしておいたのだ。時間そのものと遊んだ。(回想)どんな時間でも、手つかずで新品だから彼女には興味深かったのだ。まつ毛が濡れた赤ん坊と目があう。もうすぐ駅に着く。

22

雨粒が宇宙を包んでいる。

彼は赤い傘をさした彼女のうしろを歩いている。駆ければ5秒で追いつく距離を保ちながら歩いている。草をなでる雨音が、世界を透明にしていく。彼はひとりでいる彼女を見るのが好きだった。教室の中で笑っているときとはまったく違う。そっと息をしながら、考えごとをしているような。そしていま、キンモクセイのあまい匂いを一緒に通過している。彼女は彼に気づかないまま、宇宙でふたりきりになっている。

21

考え事のゆくえ。

布団の中に入ってから、ずいぶんと時間がたっていることは彼女にもわかっていた。眠りに落ちる瞬間を“あ、いまだ”と見届けたい。そんな意識がじゃまをする。この国でこんな深夜まで起きている小学生は、きっとじぶんだけだ。胸の真ん中あたりに、シュワシュワと焦りのソーダ水が湧き上がる。真っ暗な部屋。真っ暗な口の中。音楽の授業で演奏した行進曲が、高らかに耳の奥から聞こえてくる。じぶんの心臓が同じリズムで打っている。朝をつかまえに、裸足のまま外へ出てみたらどうなるだろう。真っ暗な地面にストンと穴があいた。これが夢なのか想像なのか、考えることを手放そうとおもった。

20

今日は歩いて帰ることにした。

一歩一歩、足を前に踏み出しているうちに、身体がだんだんと軽くなっていく。歩けば歩くほど、むしろ身体がないみたいになっていく。書類がつまったトートバッグさえも重さがなく、ただ勝手に肩にひっかかっている感じ。若い女性の笑い声やら、カフェのグリーンのヒカリやら、散歩する犬のぬれっとした瞳やらが、秋、最初のセーターに染み込んでいく。感覚だけが目をぱっちりと開けて、赤ん坊みたいに吸収していく。このまま、どこまでも歩いていけそうな気がしてくる。何にもとらわれていない、偏りのない、素晴らしく均整のとれた自分が、ただただ歩いている。

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電車は遅れておりますが

ふわっと映像が浮かんで、
こころが6.6グラム(当社比)軽くなる。
ワンシチュエーションでつづる、
シラスアキコのショートストーリー。

自分がジブンにしっくりくる感じの時は、気分がいい。
こころと身体が同じ歩幅で歩いているのがわかる。
いつもこんな感じで生きていきたい。

でも、かなりの確率でイライラと聞こえてくる
「お急ぎのところ、電車が遅れて申し訳ございません」。

そんな時は“ここじゃないどこか”に、
ジブンをリリースしてしまおう。
きっと気持ちの針が、真ん中くらいに戻ってくるから。

シラスアキコ Akiko Shirasu
文筆家、コピーライター Writer, Copywriter

広告代理店でコピーライターとしてのキャリアを積んだ後、クリエイティブユニット「color/カラー」を結成。プロダクトデザインの企画、広告のコピーライティング、Webムービーの脚本など、幅広く活動。著書に「レモンエアライン」がある。東京在住。

color / www.color-81.com
レモンエアライン / lemonairline.com
contact / akiko@color-81.com

◎なぜショートストーリーなのか
日常のワンシチュエーションを切り抜く。そこには感覚的なうま味が潜んでいる。うま味の粒をひとつひとつ拾い上げ文章化すると、不思議な化学反応が生まれる。新たな魅力が浮き上がってくる。それらをたった数行のショートストーリーでおさめることに、私は夢中になる。

イラストレーション
山口洋佑 / yosukeyamaguchi423.tumblr.com