75

ポケットの中の手と手。

ツイードのコートを10ヶ月ぶりにタンスの奥から出して着た。冷たい風が、今年の最終回に向かって吹き始めたらしい。彼の手にはコーヒーシェイク。冷たいものを冷たい手で持ち歩くのは、少しつらい。左手をコートのポケットにつっこむ。指に何やらあたるものがある。取り出してみると小さな紙。

牛乳 ハム ヨーグルト パン(食パン以外のおいしそうなもの) アロンアルファ

…とあった。別れた彼女の眠たそうな文字だった。彼はよく買い物を頼まれていた。あの頃の日常のかけらが、予告もなく魔法のようにあらわれたのだ。彼はメモをぎゅっと握りしめると、もう一度ポケットの中に入れた。ポケットの中で彼女と手をつないで歩くように。

 

*「電車は遅れておりますが」は毎週火曜日に更新しています。

74

エスプレッソがGoと言った。

ショーウィンドウに飾られていたあるものに惹かれて、彼女はブティックのドアをあける。それは甘い砂糖と雪の結晶で仕上げたような、ベビーピンクのファーの襟巻き。なんて可愛らしいんだろう。

しかし彼女が手にしたのは、その隣にあるブルーグレーのファーだった。昔からそうなのだ。本当はベビーピンクを選びたいのに、自分の女性性にクールな蓋をかぶせてしまう。鏡の中の自分はいつも通りだった。

その時、エスプレッソの香りが流れてきた。(あぁこのブティックはカフェカンターもしつらえてあるのだ)エスプレッソの香りは迷いのない濃縮されたほろ苦さと、どこか夢見るような軽やかさを表現していた。先週、ボーイフレンドと別れた彼女に、エスプレッソが心地よく身体じゅうにめぐっていく。

(いまの私だったら、しっくりくるかもしれない)

ブルーグレーの襟巻きを首からはずして、ベビーピンクの方をゆっくりと巻いてみる。なめらかな肌をした彼女は、誰よりもベビーピンクが似合っていた。細かい傷をたくさん重ねて得た、深くてビターなエスプレッソのこころを持っていたから。

 

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73

日用品は私のオーケストラ。

彼女の部屋をそのまま美術館で再現したら、意外と前衛的なアートになるかもしれない。そんなシニカルな考えは彼女自身から浮かんだ。

歯磨きペーストはペラペラに痩せているし、石鹸もあめ玉の最後の方みたいな姿だし、ティッシュペーパーは底をつき、駅でもらったポケットティッシュが何個も転がっている。コーンフレークの四角い箱を振ってもカスカスの音しかしないし、残り少ないマヨネーズは冷蔵庫の中で“おじぎ”をしている。

彼女は伸びすぎた前髪をすくって、ピンクのゴムで高めのポニーテールをつくった。「よし、買い物にいく」家の中の終わりかけたものたちと決別して、ピカピカなエネルギーをもった新品たちを迎えるんだ。自分のこころの中がこの部屋の風景をつくっていることを、もちろん彼女は知っていた。

外はもう暗くて肌寒くて、会社帰りのサラリーマンたちは無表情だった。ポケットに財布だけを入れた彼女は、スーパーマーケットの白いヒカリを見つけた。きっと日用品が彼女を盛り立ててくれる。たっぷりとあたたかな音色を放つ楽器のように。

 

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72

ラクトアイスを聴いたことあるかい。

気が変になってくるリズム感。音程がひっくり返る歌声。いつもへの字口の愛想のなさ。平均年齢18.7歳の女子で結成されたロックバンド“ラクトアイス”。

ある音楽評論家は「世界最悪級のおぞましいフェイク」と評し、またあるミュージシャンは「ビーチ・ボーイズのコピーを演るなんて1万年早い」と噛んでいるガムを床に投げつけた。悪評に反比例して“ラクトアイス”のレコードは飛ぶように売れ、ワールドツアーのチケットは秒速でなくなった。

ヴォーカルのリリィは、ローリング・ストーン誌の表紙の撮影中だ。栗色の髪をツインテールにして、アイスクリームになりきれない“ラクトアイス”でできた水色のアイスバーを舐めている。カールしたまつげはスタジオの屋根を突き破り、太陽と握手ができるくらい長かった。

カメラマンはできるだけおバカな女のコを撮りたいようだった。最大のヒット曲にあわせてリリィは腰を振って踊り出した。世界じゅうのラクトアイスマニアとラクトアイスアンチの大好物くらい、リリィは1万年前から知っているのだ。

(なぁんにも考えてないフリするの、得意なの)

ラクトアイスは消費されない。消費させられていたのは彼らだった。

 

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71

低血圧な午後のブルース。

人生のモラトリアム期間であり、大人の男になるための訓練であり、ひとの痛みを知るための1ページを、いま僕は過ごしている。

早く言ってしまえば、大学浪人をしている。何度目かの台風が過ぎて、夏が陰りをみせた予備校は、いつにも増して眠かった。(講師の声はいつにも増して大きかった)

3列前の左斜めに座っている女のコに目がいった。濃いオリーブ色の薄手のセーターを着ている。まだ誰もが“色あせた夏”に未練を残している中、彼女はふっと別の空気をまとっていた。セーターは繊細な彼女を繭(まゆ)のように用心深く包み込んで、下界のくすんだ空気に触れないようにしているようだった。

ショートボブの襟足からつながる細っそりした首のラインが「もう秋だよ」と、自分だけにささやいた、気がした。

 

 

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70

パジャマでディナーが彼女の作法。

毛布とパジャマは、波と砂浜の関係。

ちょうど中間地点に、ディナーのトレイが乗っている。

赤ワインをこぼさないように、そっと。

 

今夜は夏の終わりと、秋の始まりの関係。

言い残したことを置き去りにするか、次へ持っていくか考えてる。

 

半分起きてるけど、半分寝てる。

冷たいバターをクラッカーに浮かべて、

波打ち際のどっちに引きずられるか、楽しんでる。

 

はっきりさせないことは、ひとつの自由。

昔飼ってた猫の、プロポーションのように。

あいまいで、しなやかで、やわらかな。

 

 

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69

細胞の総入れかえは一瞬で。

昨日までの自分の中身は、いったい何の成分で出来ていたのだろう。パソコンのキーボードを押すことやら、美容院の予約をすることやら、ヨーグルトの蓋を用心深く開けることなど、そうそうこころを使っているとはおもえない。何を考えて生きていたのだろう。昨日までの自分が別人になった。

今日、あのひとが目の前に現れた。そして身体じゅうの細胞がすべて入れかわってしまうのに1秒もかからなかった。あのひとのまつ毛やら、指の関節の感じやら、声の色やらが、彼女を(勝手に)しあわせにした。まあたらしい細胞は、とても軽やかで艶々としていた。

彼女は電車のドアが閉まるオトさえも美しく聴くことができた。駅に着くまで、たっぷりあのひとのことを考えられる。まあたらしい自由に、めまいがするほどだった。地上に出るとあたらしい夜空が広がっているはずだ。あのひとが細胞に染み込んだ彼女は、世の中のすべてが初めてみるものに変わっていた。

 

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68

夏が終わらないうちに、終わってしまうもの。

駅の改札を出た右側、柱の影に彼の顔を見つけた瞬間、夏が始まった。まだ折り目のついていない、まっさらな夏。初めての待ち合わせ。ふたりが歩き出した瞬間、夏がうごきだした。

「どこいこっか」彼の口角は上がっていて、彼女のノースリーブの腕は美しかった。もう夕方なのに、太陽はなかなか傾いてくれなかった。

夏のてっぺんの日、ふたりは映画館から出てきた。映画の感想を交わしながら、甘いカクテルを味わった。なまあたたかい夜はどこまでも透明で、森の香りがした。

夏が遠い目をした日、ふたりは歩道橋を渡っていた。「用事があるから」彼女は彼の用事の中身を聞けなかった。

夏の後ろ姿をみた日、彼女は6枚切りの食パンを買った。一緒に食べたクロワッサンの棚は、見るのもつらかった。

パンの袋を指に引っかけて、帰り道を歩いた。「まだ蝉、鳴いているんだ」彼女の夏はとっくに終わってしまったのに。

 

 

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67

脳のお腹が空いている。

彼女は家の中の本棚の前で“立ち読み”をしている。

お腹を空かせた脳が、何か新しい刺激を欲しがっている。

でも。あれほど夢中になった純文学も、

あれほど憧れたモデルのスタイルブックも、

たちまち大金持ちになれるハウツー本も、

まったくトキめくことができない。

パラパラとページをめくっては本棚に戻す、をずっと繰り返している。

彼女はあきらめて冷蔵庫をあけ、プリンの残りを胃袋に入れる。

財布を持って外へ出ると、細い三日月が浮かんでいた。

そろそろ本屋に、脳の栄養を仕入れに行くタイミングらしい。

 

 

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66

フィッティングルームで洋服と格闘しているみなさんへ。

上空からおしゃべりしてもよいですか。

(私は雲ひとつない空を、ヘリコプターで移動しています。)

 

もう立派な大人たちが、普段とは違う、

無防備であどけない顔をしている場所ってどこだと思いますか。

 

それはデパートメントストアのフィッティングルームですよ。

いまパイナップル柄のワンピースから顔をだしたあなたもそう。

スキニーなパンツのジッパーが上がらずに、

ため息をついているあなたもね。

後ろ姿のラインを一生懸命確認しているあなたもね。

会社でプレゼンテーションをしている時も素敵だけれど、

鏡の前でひとりっきり、真剣そのもののあなたはとてもチャーミング。

(誰にも見られていない、素のあなただ!)

 

あのね10秒後にフィッティングルームの屋根がパカッと開きますので、

その瞬間私に手を振ってみてくださいね。

ヘリコプターから私も手を振りますね。

さぁ、1、2、3…。

 

そして世界中のフィッティングルームパーティーが、

1分間だけ行われた。

 

 

 

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電車は遅れておりますが

ふわっと映像が浮かんで、
こころが6.6グラム(当社比)軽くなる。
ワンシチュエーションでつづる、
シラスアキコのショートストーリー。

自分がジブンにしっくりくる感じの時は、気分がいい。
こころと身体が同じ歩幅で歩いているのがわかる。
いつもこんな感じで生きていきたい。

でも、かなりの確率でイライラと聞こえてくる
「お急ぎのところ、電車が遅れて申し訳ございません」。

そんな時は“ここじゃないどこか”に、
ジブンをリリースしてしまおう。
きっと気持ちの針が、真ん中くらいに戻ってくるから。

シラスアキコ Akiko Shirasu
文筆家、コピーライター Writer, Copywriter

広告代理店でコピーライターとしてのキャリアを積んだ後、クリエイティブユニット「color/カラー」を結成。プロダクトデザインの企画、広告のコピーライティング、Webムービーの脚本など、幅広く活動。著書に「レモンエアライン」がある。東京在住。

color / www.color-81.com
レモンエアライン / lemonairline.com
contact / akiko@color-81.com

◎なぜショートストーリーなのか
日常のワンシチュエーションを切り抜く。そこには感覚的なうま味が潜んでいる。うま味の粒をひとつひとつ拾い上げ文章化すると、不思議な化学反応が生まれる。新たな魅力が浮き上がってくる。それらをたった数行のショートストーリーでおさめることに、私は夢中になる。

イラストレーション
山口洋佑 / yosukeyamaguchi423.tumblr.com