173

クロックマダムの生涯。

エスプレッソ邸に住むクロックマダムは、長く仕えた使用人のマカデミアが亡くなってから、すっかり外出をしなくなった。絶世の美女と謳われたクロックマダムは、女優を30歳で引退。いくつかの結婚と、ありあまる資産の使い道以外、世間の話題にのぼることはなかった。好き嫌いが激しい彼女は、新たな使用人たちとは口をきかなかったが、今朝は特別だった。「ドレスの裾、アイロンかけてちょうだい!」「香水、新しいの買ってきて!」「前菜にあわせるシェリー酒はあるの?」大きな声が立て続けに響いている。なぜなら今日は、銀幕の中で共演を重ねたクロックムッシュが訪ねてくるのだ。まさに30年ぶりの再会。クロックマダムは、一度だけクロックムッシュからプロポーズをされたことがある。映画のセットの影でこっそりと。でも、彼女は胸をときめかせながらも断った。(とりあえず最初は断る、をルールにしていた)

街の灯りがともる頃、エスプレッソ邸の呼び鈴が鳴った。クロックマダムは、額装してある女優時代の写真を見て深呼吸をした。瞳はみずうみの澄んだ青、長いまつ毛は孔雀のように広がり、口もとはもぎたてのチェリー。“見つめられると2秒で天国行き”という謳い文句が流行ったものだ。もし、クロックムッシュが30年もの想いを彼女に告げたら。今度こそプロポーズを受けよう。彼女は決心をした。

使用人から居間へ通されたクロックムッシュを、彼女はぴったり10分間待たせる。(遅れて登場するのをルールにしていた)ドアをあけると、窓の外を眺めているクロックムッシュがいた。今も第一線で俳優を続けている彼の魅力は、まったく変わっていない。いや歳月を重ねた分、その存在感は深く濃く伝わってくる。クロックムッシュは感動を隠せない表情に、笑顔がこぼれた。「お変わりありませんね、お母様!」時の流れは残酷だ。この日のために磨き上げたクロックマダムを目の前に、彼は彼女の母親であると勘違いをしたのだった。

クロックマダムは、一瞬で絶望の瞳を懐かしさの色に変化させる。「まぁクロックムッシュ!よく来てくださったわ。」そして続けた。「実はね…娘は…残念ながら亡くなったのです。」「クロックマダムが亡くなったった…?」彼は呆然と立ちすくむ。「娘はあなたのことを、ずっと愛していたんですよ。」30年のブランクを感じさせないほど、クロックマダムの演技は完璧であった。fin

 

*「電車は遅れておりますが」は毎週火曜日に更新しています。

172

有名な孤独。

彼女は袖を通さないカーディガンを、指先でたぐり寄せながら歩いている。あのひとに言いたかった言葉が、言えなかった言葉に変わっていく。次の季節に連れていかない気持ちに、サヨナラ。もう会うこともない。一番近くにいたひとが、世界で一番遠いひとになった。もしかしてこれが、かの有名な孤独というものなのだろうか。だとしたら、ようこそ!と抱きしめるのだ。天に広がるグレーの空は、彼女の覚悟を静かに抱きしめている。雨つぶが、ひとつ、ふたつ染みる。信号は青から赤に変わる。横断歩道はにじんで、ぐにゃっとゆがんで映っている。

 

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171

わたしの魅力をあなたは知らない。

起きぬけのわたしは、バサバサの髪の毛にねじれたパジャマ。目はあいていないし、まっすぐに歩けないし。イキモノとしてもっとも弱々しい姿を、あなたに見せたい。(好きにさせる自信アリ)

ダッシュで走るわたしがあなたにボン!とぶつかって「キャッ!」と驚いた顔なんてしてみたい。そんなシチュエーションなんてないけれど。はずみがつくと素直な自分になれるのに。

どうしてあなたの前に出ると、キュッとこころも表情も縮まるの。黒いマスカラもとがったヒールも、ほんとはいらない。あなたはわたしの魅力を、世界で一番知りません。

 

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170

TVドーナツ。

ここはうさぎスーパー。あらいぐま坊やはママにせがんでいます。「TVドーナツ買ってえぇぇぇ」「こんなのムシャムシャ食べたら虫歯になります」あらいぐまママきいてくれません。「TV観ながら食べたらすぐに太りそう〜」やぎの女子高校生たちは盛り上がっています。うさぎ店長はコホンと咳払いをしていいました。「確かにTVを観ながら食べるドーナツです。ただしパッケージの文字を読んでみてください」袋には“ホラー映画用”と書いてありました。フランケンシュタインのイラストも小さく載っていました。「怖いシーンの時に、このドーナツの穴からTV画面をのぞくのです。ホラー映画が苦手なかたでも、最後まで観ることができます。そのための穴なのです」あらいぐまママもやぎの女子高校生たちも、このTVドーナツがとても魅力的におもいはじめました。”ドーナツが美味しいのはあたりまえ。もうひとつプラスの価値をつけるのだ。”うさぎ店長の商売ノートにはそうしたためられていました。うさぎ店長は商売のコツを知っていました。

 

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169

114秒のホラー。

彼は石の階段をのぼっている。56、57、58…。こころの中で数えながら階段をのぼっている。69段をのぼりきったら我が家が見えてくる。もう少しだ。家を買ったのが4年前。そろそろこの階段にも慣れて良いはずなのに、息が上がるのが早まっているのは年齢のせいだろうか。夜が夏の夕日に溶け込みはじめる。この階段をのぼる者は彼ひとりだ。額の汗をぬぐうこともせず、彼はただ階段をのぼることだけに集中する。66、67、68…。

あと一段、というところで彼の目の前は真っ暗になった。とろりと身体が浮いた。次の瞬間、彼は階段の一番下でうずくまっていた。気を失っていたのだろうか。貧血をおこしたのかもしれない。でも、変だ。さっき68段までのぼっていたはずなのに。それとも階段をのぼる前に倒れてしまい、短い夢でも見ていたのか。彼はスーツについた泥をはたきながら立ちあがる。とにかく早く家に帰りたい。妻と子供たちの顔を見れば、今の不可解な出来事なんて忘れられるに違いない。さぁまた一段目からはじめるか。1、2、3、4、5、6…。今年最後の蝉が、ワンワンと競い合うように鳴いている。自分の吐く息が、蝉のテンポとシンクロしていく。そしてようやくここまできた。彼ははっきりと数字を声に出す。66、67、68…。

すると目の前が真っ暗になり、そして身体がその場からスライドする。気がつくとふたたび階段の一番下に倒れている自分がいた。「なんなんだ、一体」彼は両手を髪の毛の中に入れ、10本の指で自分の頭を鷲掴みにした。頭皮は汗でじっとりと湿っていた。彼は地べたにあぐらをかく格好で目を閉じ、深い呼吸をした。きっと疲れているんだ。帰ったらまず風呂に入ろう。そして夜はぐっすりと眠るんだ。彼は恐怖心を追い払うために、ごくごく日常の営みを想像してみた。つけっ放しのテレビ、子供たちがキャッキャと騒ぐ声、妻が食器を洗う音。いくらか気分が落ち着いてきた。ゆっくりと目をあけて、高く伸びる階段を仰ぎ見る。彼の目に飛び込んできたのは、ぞろぞろと階段をのぼっていく人たちの光景だった。ダッダッ、ダッダッ…!ダッダッ、ダッダッ…!  足音が規則正しく響きわたる。20人、いや30人ものスーツ姿の男性たちが、ただひたすら階段をのぼっているのだ。数秒後、彼は男性たちの後ろ姿がまったく同じであることに気がつく。そしてそれらが自分自身の後ろ姿であることも。

 

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168

画家とモデル。

古いエレヴェーターのボタンを押す。数字の4。脇に挟んだクラッチバッグには、口紅1本と紙幣2枚だけ。(バッグが膨らむ無粋を彼女は恐れていた)鈍い音をたてながら上昇していく箱の中は、彼女がスイッチする場所。秘書から絵のモデルへと変わる瞬間。エレヴェーターのドアがあくと、インディゴブルーのカーペットが伸びていた。左右にはグレーのドアが連なっており、よく磨かれた金色のノブが一本の廊下に映えている。部屋の数字は404。4回ノックする。ドアがあく。画家は彼女の顔からヒールの先まで目線を移動させると、首を縦に振った。絵のモデルとして合格という意味だ。部屋の中央に一脚の椅子が置いてあった。彼女はまっすぐ椅子の場所まで歩き、そして座った。画家はやっと口を開いた。「あなたの一番最初の記憶を、頭の中で浮かべてください。その感覚をずっと味わってください。」彼女は質問した。「なぜ一番最初の記憶なのでしょう。」画家は言った。「ここに居るのにここに居ない女の顔を描きたいからですよ。」彼女は充分に納得してうなずいた。夕方の空に雷が立て続けに鳴っている。彼女は目を閉じて深呼吸をする。画家が持つグラスの氷が、一個液体に変わる。彼女は2歳の女の子になっていた。実家の居間にうっすらと母親が浮かんできた。

 

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167

8月はうしろめたい。

8月はうしろめたい。

太陽に派手に照らされて、過去のごめんなさい!があぶり出されるから。

それとも、お盆があるから。(手を合わせよう)

それとも、夏休みの宿題憂鬱DNAがうずきだすから。

言い残したことが、もはやある。

この季節はあっという間に後ろ姿になってしまうから。

(もうちょっとゆっくりでおねがい)

こころの一番奥では焦ってるくせに、

ポーカーフェイスでたらたらと歩いてる。

まったくきみは何歳なんだ。

あぁ肌にまとわりつく甘ったるいぬくもり。

大嫌いなのに、

これがサマー。

(地球で最初の人類は8月生まれな気がするな)

 

 

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166

夏の夕方の秘密。

プールからあがったクタクタの身体で、僕は自転車を漕いでいる。お腹がすきすぎて、猫背になって漕いでいる。だんだんと暗く沈んでいく夏の夕方が、僕は嫌いじゃない。自分の中に潜んでいるいくつかの秘密と、素直に向き合える気がするから。あのこ、どうしてるかな。あのこの笑った顔を思い出す。学校に行けば毎日見ることができたのに。夏休みは好きだけど、嫌いだ。誰もいない道の両側から大きな木がせり出して、影絵のように映っている。夏の虫が合唱をはじめる。

一本道の先にゆらゆらと二つの人影が見えてくる。僕は無音の口笛を吹きながら進んでいく。遠くの二人が電柱のライトに照らされると、僕の心臓はドクンドクンと波打ち始めた。あのこだ。あのこが浴衣を着て、お母さんと話しながら歩いてくる。あのこに声をかけるんだ、挨拶するんだ。なのに。僕はまっすぐ前を見たまま通り過ぎてしまう。

でも、すれ違ってしまう0.1秒前にあのこも僕に気がついた、とおもった。僕は自転車をそのまま少し走らせたけれど、キュッとブレーキをかけて立ち止まった。僕が後ろを振り向くと、その瞬間、あのこも振り返った。そしてあのこは手をあげて、小さくその手をふった。僕も右手をハンドルからはずし、小さく手をふった。浴衣を着たあのこが、僕に手をふってくれた。宇宙の空には、黄色い月がぼんやり浮かんでいる。

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165

ノールール。

私は海の水でできている。

私は毎日自分の中の海で自由に泳いでいる。

 

私は眠れなくても悲しくならない。

私の24時間なのだからどう使ってもよい。

 

私は年をとらない。

私は3歳であり100歳でもある。

 

私は汚れない。

私を汚すものはこの世に存在しない。

 

私はいつも扉をあけている。

私にはそして扉さえない。

 

私はどう転んでも不幸にならない。

私には不幸になる才能がない。

 

 

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164

ずっとむこうのちいさなヒカリ。

背筋をしゃんと伸ばして、

あごをひいて、

口角を上げて、

右、左、右、左。

交互に足を前に出せば、

風がおきる。

前髪があそぶ。

口笛を吹いてみる。

曲じゃなくて気分のメロディ。

トンネルの中は真っ暗だけど、

ずっとむこうのちいさなヒカリ。

こころの目だとみえるんだ。

 

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電車は遅れておりますが

ふわっと映像が浮かんで、
こころが6.6グラム(当社比)軽くなる。
ワンシチュエーションでつづる、
シラスアキコのショートストーリー。

自分がジブンにしっくりくる感じの時は、気分がいい。
こころと身体が同じ歩幅で歩いているのがわかる。
いつもこんな感じで生きていきたい。

でも、かなりの確率でイライラと聞こえてくる
「お急ぎのところ、電車が遅れて申し訳ございません」。

そんな時は“ここじゃないどこか”に、
ジブンをリリースしてしまおう。
きっと気持ちの針が、真ん中くらいに戻ってくるから。

シラスアキコ Akiko Shirasu
文筆家、コピーライター Writer, Copywriter

広告代理店でコピーライターとしてのキャリアを積んだ後、クリエイティブユニット「color/カラー」を結成。プロダクトデザインの企画、広告のコピーライティング、Webムービーの脚本など、幅広く活動。著書に「レモンエアライン」がある。東京在住。

color / www.color-81.com
レモンエアライン / lemonairline.com
contact / akiko@color-81.com

◎なぜショートストーリーなのか
日常のワンシチュエーションを切り抜く。そこには感覚的なうま味が潜んでいる。うま味の粒をひとつひとつ拾い上げ文章化すると、不思議な化学反応が生まれる。新たな魅力が浮き上がってくる。それらをたった数行のショートストーリーでおさめることに、私は夢中になる。

イラストレーション
山口洋佑 / yosukeyamaguchi423.tumblr.com