232

キャンセルのキャンセル。

彼女は今日の予定を取り止めにした。靴マニアにとって、雨降りの外出は致命傷だった。頬ずりしたいほど溺愛している靴を、裸でびしょ濡れにできるわけがない。彼女は玄関に座り込み、靴磨きをはじめた。空白の時間を愛する靴に捧げる。我ながら粋なアイデアだとおもった。激しい雨音のBGMも心地いい。このショートブーツは10年以上履いている。買った時より、深い艶が湧きでるようになった。このエナメルのピンヒールは、ほぼ歩かない時にしか足を通さない。おかげで傷ひとつなく、ぷるんとなめらかな肌触りを保っている。手入れが終わった靴をズラリと並べて、彼女は満足げにため息をついた。ふと、ブラウンのローファーに、一筋のヒカリが差し込むのに気がつく。振り返ると窓の外は、明るい世界に変わっていた。雨は上がっていたのだ。スズメははしゃぎ、木々は雨の雫でキラキラと輝いている。彼女は大きく深呼吸した。「やっぱり出かけよう」今日は、別れた彼の初個展の日。雨を言い訳にキャンセルしようとした気持ちに、もう一度(えいっ!)とキャンセルをした。

 

 

*「電車は遅れておりますが」は毎週火曜日に更新しています。

 

 

 

231

こころのラジオ体操。

目をとじてー。

深い森の空気を胸いっぱいに吸い込んでー。

遠い海にゆっくりとはきだしてー。

大きなもやもや、小さなもやもや、

おにぎりみたいにギュッとにぎってー。

空に向かってポーーーンと投げてー。

頭のてっぺんから指先まで、

心臓のオトがゆっくりとめぐっていくー。

すべてがある。もはやあなたには、すべてがある。

なにひとつ、足りないものはない。

 

*「電車は遅れておりますが」は毎週火曜日に更新しています。

230

宇宙的な日。

自分についている透明な鍵をカチャッと閉めて、甘いドーナツと甘いココアを自分に差し入れして、絶対に裏切らない大好きな漫画を読みながら、ごろごろ、ごろごろ、だらだら、と自分を好き放題にさせていると、眠気も仲間入りしてきた。目がさめると、小さな部屋が暗い宇宙になっていた。今が朝なのか夕方なのかわからない。ズシンと重い悩みごとが、身体の中から消えていた。悩みごとは、宇宙のゴミと一緒に、遠いかなたに吸い込まれていってしまった。

 

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229

てんきの、よほう。

はれです、ぎらぎらとたいようが、かがやきます、といっている。うれしくおもうひともいれば、かなしくなるひともいるのだとおもう。こころのなかが、ざーざーと、しとしとと、もわもわと、していたら、ぎらぎらたいようは、ちょっときついかもしれない。てんきよほうをみて、みんなおんなじきもちになるのだ、というふうにおもうのは、ちがうのだ。ぼくはきがついた。きょうきがついた。

 

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228

秘密の旅。

特訓の甲斐があって、僕はひとりで自転車に乗れるようになった。ペダルを踏み込むと、軽やかに旅が始まった。いつもの風景が後ろにすっ飛んでいく。散歩の犬も、学校帰りの中学生も、スイスイと追い越していく。まっすぐに駅の方へ向かっていたけれど、いつもとは違う角を曲がってしまえ。初めて見る小さな公園、初めて見るドーナツ屋さん。僕はペダルをぐんぐん漕いでいく。あぁ楽しい。でも、日が落ちてきたからそろそろ帰らなきゃ。方向を間違えているのか、大通りが見えてこない。漕いでも、漕いでも見えてこない。僕の身体の中心は、ふわふわと頼りなく波打っている。あたりは暗くなり、風がつめたくなってきた。僕はついに自転車を止める。知らない家からオレンジ色の明かりがもれ、テレビアニメのエンディング曲が聞こえてくる。一体ここはどこなんだ。もう家族とは一生会えない気がして絶望する。顔を上げると、視線の先に大通りの風景がかすかに見えた。僕は疲れ切った脚を必死に回転させて、大通りへ出た。馴染みのある街並みに、涙がにじんできた。そしてこの出来事は、一生誰にも言わないと誓った。

 

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227

二度目のピーク。

白か黒か一瞬だけ指先が迷った末、彼女はシュガーポットから黒砂糖のキューブをつまみ上げ、ブラックコーヒーに投入した。スプーンでかき混ぜることはせず、ただ黒い液体に沈んでいく黒砂糖に想いを馳せる。黒砂糖は細胞分裂しながら、最後は無になるのだ。自らの甘みを散りぢりに飛ばしながら、いつかは居なくなる。彼女は女優としてのピークを迎えていた。いや、もっと正確に言えば、ピークの終わりの始まりにいる。映画監督もスポンサーも熱狂的なファンも、まったくそのことに気づこうとしない。“冷たい水のような透明感”と謳われた素肌は、もうとっくに生温かく濁り始めているし、“音楽のように自由な演技力”は感性の残り火だけでまかなっている。サングラス越しに見えるモノクロームの空には、次々に飛行機が消えていく。パリ行きのアナウンスが、繰り返し響いている。彼女はこれから30年間姿を消す。誰にも居場所を言わずに。そして30年後、変わり果てた姿で銀幕に戻ってくるのだ。二度目のピークはそのときだ。次こそは、自分の意志で舞台に立つ。初めて女優になれるのだ。

 

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226

もし、もしも。

新しいワンピースが縫い上がった瞬間、電話が鳴った。彼だ、密かに片思いちゅうの。え、これってテレパシー的な。もしもし。(できるだけ普通に!)あなたのこと想いながらワンピース縫ってました、なんて言えるわけない。声が聞きたいから電話したって、ほんとに。それって。(どきどき)ぽつりぽつりと、お互いの近況報告がつづく。あぁ、そんなことより。もし、もしもデイトに誘ってくれたら、このワンピースを着ていくのに。ほら、こんなに可愛く仕上がってるのに。2秒半くらいの沈黙のあと、彼が言った。「もし、もしも今度の日曜日あいてたら…」やった!

 

 

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225

もしもし。

秋のある日、ぎりぎりのトースト。チン!想いがつよすぎて、焦がしてしまう。女性を追いかけたらダメ、追いかけられる男になれ、と先輩に忠告された昨夜のハイボール。ザクッ!とバターを塗りながら、追いかけられる気持ちってどんなだろ。(わからん、どんなだろ)ただただ、あのこが笑っていられるような僕でいたい。ただただ、あのこがふわーっとあくびをするのを見ていたい。トーストが焦げようが、今日が何曜日だろうが、あのこが僕のことを求めているのか、なんて関係ない。トーストを食べ終わったら、ただただ、僕は(いま流行らない)電話をしてしまおう。ただただ、あのこの声がききたいから。

 

 

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224

お好きなように。

あたたかいスープにするか。つめたいスープにするか。

お好きなように。

 

今日へんじをするか。明日へんじをするか。

お好きなように。

 

片想いをあと少し続けてみるか。他の誰かに目移りしてみるか。

お好きなように。

 

傘をカバンからとりだすか。もうこのまま濡れていくか。

お好きなように。

 

最初の直感を信じてみるか。今の気分を信じてみるか。

お好きなように。

 

あなたが決めたことが、いちばんサイコー。

あなたが決めたんだから、いちばんホントウ。

 

 

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223

バレリーナキッチン。

白鳥のような美しいネックラインをもつ双子の姉妹は、今夜も大忙し。ひき肉をピーマンの部屋にぎゅっとつめ込んだり、オーブンの中でうなっているグラタンをなだめたり、泣きながら玉ねぎを裸にしたり、ムール貝に白ワインを振りかけて嫉妬の炎を焚きつけたり。あぁ。気取り屋のカスタード氏は「コンソメスープにアルゼンチン産の卵を落としてくれたまえ」とオーダーしてくるし。ふぅ。美容室帰りのマドレーヌは「顔映りのいい深いオレンジ色のカクテルを頂戴」とお澄まし。でもお客の我が儘は、姉妹にとって愛すべきもの。突然、小刻みのドラムの音。景気のいいトランペットは天井を突き破り、低いウッドベースは地下室のさらに下まで響きわたる。双子の姉妹は着けていたエプロンを剥ぎとり、ジャズバンドの前までつま先で歩く。拍手がわき起こる。姉妹のショータイムのはじまり。ここからは我が儘なお客も自分でソーセージを焼いたり、チーズをカットしたり、ビールを冷蔵庫から出してきたり、すべてセルフサービス。(しかも喜んで!)ここは、港町に建つ白いペンキのはげたバレリーナキッチン。姉妹のダンスの盛り上がりは、海に浮かぶ漁船にまで夜風に乗って伝わっている。

 

 

 

*「電車は遅れておりますが」は毎週火曜日に更新しています。

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電車は遅れておりますが

ふわっと映像が浮かんで、
こころが6.6グラム(当社比)軽くなる。
ワンシチュエーションでつづる、
シラスアキコのショートストーリー。

自分がジブンにしっくりくる感じの時は、気分がいい。
こころと身体が同じ歩幅で歩いているのがわかる。
いつもこんな感じで生きていきたい。

でも、かなりの確率でイライラと聞こえてくる
「お急ぎのところ、電車が遅れて申し訳ございません」。

そんな時は“ここじゃないどこか”に、
ジブンをリリースしてしまおう。
きっと気持ちの針が、真ん中くらいに戻ってくるから。

シラスアキコ Akiko Shirasu
文筆家、コピーライター Writer, Copywriter

広告代理店でコピーライターとしてのキャリアを積んだ後、クリエイティブユニット「color/カラー」を結成。プロダクトデザインの企画、広告のコピーライティング、Webムービーの脚本など、幅広く活動。著書に「レモンエアライン」がある。東京在住。

color / www.color-81.com
レモンエアライン / lemonairline.com
contact / akiko@color-81.com

◎なぜショートストーリーなのか
日常のワンシチュエーションを切り抜く。そこには感覚的なうま味が潜んでいる。うま味の粒をひとつひとつ拾い上げ文章化すると、不思議な化学反応が生まれる。新たな魅力が浮き上がってくる。それらをたった数行のショートストーリーでおさめることに、私は夢中になる。

イラストレーション
山口洋佑 / yosukeyamaguchi423.tumblr.com