返し忘れた本。
彼女とは夏の最初に出会って、夏の終わりに別れた。僕も彼女も、二十歳にもう少しで手が届きそうな年齢だった。あまり細かなことは思い出せない。ただ、コンサートの帰りに彼女を寮まで送っていった夜のことは、不思議なくらいありありと浮かび上がってくる。坂道の途中、先に満月に気がついたのは彼女だった。黄色い月は、後方からやさしくふたりを照らしていた。僕たちはくるりと後ろ向きになり、月を眺めながら坂を登った。とても変な登り方。彼女のいたずらっぽい顔を知った瞬間だった。60日間ともたなかった、タイトルもない僕たちの物語。きっとどちらかが、どちらかを遠ざけたんだろう。あっけない恋。なのに、今でも本棚に刺さっている一冊が、彼女の不在を僕に伝え続けている。もう返すこともない、彼女から借りた本が。
*「電車は遅れておりますが」は毎週火曜日に更新しています。