夏の夕方の秘密。
プールからあがったクタクタの身体で、僕は自転車を漕いでいる。お腹がすきすぎて、猫背になって漕いでいる。だんだんと暗く沈んでいく夏の夕方が、僕は嫌いじゃない。自分の中に潜んでいるいくつかの秘密と、素直に向き合える気がするから。あのこ、どうしてるかな。あのこの笑った顔を思い出す。学校に行けば毎日見ることができたのに。夏休みは好きだけど、嫌いだ。誰もいない道の両側から大きな木がせり出して、影絵のように映っている。夏の虫が合唱をはじめる。
一本道の先にゆらゆらと二つの人影が見えてくる。僕は無音の口笛を吹きながら進んでいく。遠くの二人が電柱のライトに照らされると、僕の心臓はドクンドクンと波打ち始めた。あのこだ。あのこが浴衣を着て、お母さんと話しながら歩いてくる。あのこに声をかけるんだ、挨拶するんだ。なのに。僕はまっすぐ前を見たまま通り過ぎてしまう。
でも、すれ違ってしまう0.1秒前にあのこも僕に気がついた、とおもった。僕は自転車をそのまま少し走らせたけれど、キュッとブレーキをかけて立ち止まった。僕が後ろを振り向くと、その瞬間、あのこも振り返った。そしてあのこは手をあげて、小さくその手をふった。僕も右手をハンドルからはずし、小さく手をふった。浴衣を着たあのこが、僕に手をふってくれた。宇宙の空には、黄色い月がぼんやり浮かんでいる。
*「電車は遅れておりますが」は毎週火曜日に更新しています。