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断らないタイプの男。

映画館を出ると陽が落ちていた。ラストシーンが頭の中で何度もリピートされる。まわりの観客は泣いていたようだったが、ついに涙までは出なかった。赤や黄色のネオンが彼の白いシャツに映り込む。「ウイスキー専門のバーが開店しました!」スレンダーな女性がショップカードを渡す。そして受け取る。「コンタクトレンズがお安くなっています!」筋肉質の男性がチラシを渡す。そして受け取る。彼はアルコールが飲めないし、コンタクトレンズも必要がなかった。しかし軽く会釈までして、ただ何となく受け取ってしまうのだった。彼は人生で断った経験が、数えるほどしかなかった。頭の中で映画のラトシーンを反芻する。自分に惚れている女にきっぱりと別れを告げる主人公。彼にはわかっていた。自分が断らないのは優しさではない。臆病なだけだと。夜の繁華街を歩き続ける。星のない夜空を見上げる。彼は決心した。彼は自由になりたかった。40億の遺産を受け継ぐことを断ろう。断ることで新しい人生が始まるのだ。

*「電車は遅れておりますが」は毎週火曜日に更新しています。

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電車は遅れておりますが

ふわっと映像が浮かんで、
こころが6.6グラム(当社比)軽くなる。
ワンシチュエーションでつづる、
シラスアキコのショートストーリー。

自分がジブンにしっくりくる感じの時は、気分がいい。
こころと身体が同じ歩幅で歩いているのがわかる。
いつもこんな感じで生きていきたい。

でも、かなりの確率でイライラと聞こえてくる
「お急ぎのところ、電車が遅れて申し訳ございません」。

そんな時は“ここじゃないどこか”に、
ジブンをリリースしてしまおう。
きっと気持ちの針が、真ん中くらいに戻ってくるから。

シラスアキコ Akiko Shirasu
文筆家、コピーライター Writer, Copywriter

広告代理店でコピーライターとしてのキャリアを積んだ後、クリエイティブユニット「color/カラー」を結成。プロダクトデザインの企画、広告のコピーライティング、Webムービーの脚本など、幅広く活動。著書に「レモンエアライン」がある。東京在住。

color / www.color-81.com
レモンエアライン / lemonairline.com
contact / akiko@color-81.com

◎なぜショートストーリーなのか
日常のワンシチュエーションを切り抜く。そこには感覚的なうま味が潜んでいる。うま味の粒をひとつひとつ拾い上げ文章化すると、不思議な化学反応が生まれる。新たな魅力が浮き上がってくる。それらをたった数行のショートストーリーでおさめることに、私は夢中になる。

イラストレーション
山口洋佑 / yosukeyamaguchi423.tumblr.com