初版バー。
本屋の一番奥にある『人間失格』の背表紙を指で押すと、その棚は回転する。と、目の前に暗闇のバーが現れる。マスターが振るシェイカーの響きだけが、空間の輪郭をあらわしている。しだいに目が慣れてくると、数百冊もの本が天井まで並んでいることに気がつく。カウンターには常連の女優が座っている。彼女は紫色の着物に銀色の帯、細い腕のたもとからは赤い襦袢が見え隠れする。逆三角形のグラスには、氷の星屑が舞うギムレット。女優は本の表紙を眺めながら飲んでいる。このバーに存在する書物は全てが初版本だ。コレクターが知ったら、震えてしまうほどの希少なものばかりだ。しかし本を手に取りページをめくる客はいない。本というプロダクトに囲まれることも”読書”のひとつだという、このバーの意図を理解しているのだ。この世で最も贅沢な読書なのだ、と。
*「電車は遅れておりますが」は毎週火曜日に更新しています。