366

初版バー。

本屋の一番奥にある『人間失格』の背表紙を指で押すと、その棚は回転する。と、目の前に暗闇のバーが現れる。マスターが振るシェイカーの響きだけが、空間の輪郭をあらわしている。しだいに目が慣れてくると、数百冊もの本が天井まで並んでいることに気がつく。カウンターには常連の女優が座っている。彼女は紫色の着物に銀色の帯、細い腕のたもとからは赤い襦袢が見え隠れする。逆三角形のグラスには、氷の星屑が舞うギムレット。女優は本の表紙を眺めながら飲んでいる。このバーに存在する書物は全てが初版本だ。コレクターが知ったら、震えてしまうほどの希少なものばかりだ。しかし本を手に取りページをめくる客はいない。本というプロダクトに囲まれることも”読書”のひとつだという、このバーの意図を理解しているのだ。この世で最も贅沢な読書なのだ、と。

*「電車は遅れておりますが」は毎週火曜日に更新しています。

1
TOP
CLOSE

電車は遅れておりますが

ふわっと映像が浮かんで、
こころが6.6グラム(当社比)軽くなる。
ワンシチュエーションでつづる、
シラスアキコのショートストーリー。

自分がジブンにしっくりくる感じの時は、気分がいい。
こころと身体が同じ歩幅で歩いているのがわかる。
いつもこんな感じで生きていきたい。

でも、かなりの確率でイライラと聞こえてくる
「お急ぎのところ、電車が遅れて申し訳ございません」。

そんな時は“ここじゃないどこか”に、
ジブンをリリースしてしまおう。
きっと気持ちの針が、真ん中くらいに戻ってくるから。

シラスアキコ Akiko Shirasu
文筆家、コピーライター Writer, Copywriter

広告代理店でコピーライターとしてのキャリアを積んだ後、クリエイティブユニット「color/カラー」を結成。プロダクトデザインの企画、広告のコピーライティング、Webムービーの脚本など、幅広く活動。著書に「レモンエアライン」がある。東京在住。

color / www.color-81.com
レモンエアライン / lemonairline.com
contact / akiko@color-81.com

◎なぜショートストーリーなのか
日常のワンシチュエーションを切り抜く。そこには感覚的なうま味が潜んでいる。うま味の粒をひとつひとつ拾い上げ文章化すると、不思議な化学反応が生まれる。新たな魅力が浮き上がってくる。それらをたった数行のショートストーリーでおさめることに、私は夢中になる。

イラストレーション
山口洋佑 / yosukeyamaguchi423.tumblr.com