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返し忘れた本。

彼女とは夏の最初に出会って、夏の終わりに別れた。僕も彼女も、二十歳にもう少しで手が届きそうな年齢だった。あまり細かなことは思い出せない。ただ、コンサートの帰りに彼女を寮まで送っていった夜のことは、不思議なくらいありありと浮かび上がってくる。坂道の途中、先に満月に気がついたのは彼女だった。黄色い月は、後方からやさしくふたりを照らしていた。僕たちはくるりと後ろ向きになり、月を眺めながら坂を登った。とても変な登り方。彼女のいたずらっぽい顔を知った瞬間だった。60日間ともたなかった、タイトルもない僕たちの物語。きっとどちらかが、どちらかを遠ざけたんだろう。あっけない恋。なのに、今でも本棚に刺さっている一冊が、彼女の不在を僕に伝え続けている。もう返すこともない、彼女から借りた本が。

 

*「電車は遅れておりますが」は毎週火曜日に更新しています。

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電車は遅れておりますが

ふわっと映像が浮かんで、
こころが6.6グラム(当社比)軽くなる。
ワンシチュエーションでつづる、
シラスアキコのショートストーリー。

自分がジブンにしっくりくる感じの時は、気分がいい。
こころと身体が同じ歩幅で歩いているのがわかる。
いつもこんな感じで生きていきたい。

でも、かなりの確率でイライラと聞こえてくる
「お急ぎのところ、電車が遅れて申し訳ございません」。

そんな時は“ここじゃないどこか”に、
ジブンをリリースしてしまおう。
きっと気持ちの針が、真ん中くらいに戻ってくるから。

シラスアキコ Akiko Shirasu
文筆家、コピーライター Writer, Copywriter

広告代理店でコピーライターとしてのキャリアを積んだ後、クリエイティブユニット「color/カラー」を結成。プロダクトデザインの企画、広告のコピーライティング、Webムービーの脚本など、幅広く活動。著書に「レモンエアライン」がある。東京在住。

color / www.color-81.com
レモンエアライン / lemonairline.com
contact / akiko@color-81.com

◎なぜショートストーリーなのか
日常のワンシチュエーションを切り抜く。そこには感覚的なうま味が潜んでいる。うま味の粒をひとつひとつ拾い上げ文章化すると、不思議な化学反応が生まれる。新たな魅力が浮き上がってくる。それらをたった数行のショートストーリーでおさめることに、私は夢中になる。

イラストレーション
山口洋佑 / yosukeyamaguchi423.tumblr.com