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夏の夕方の秘密。

プールからあがったクタクタの身体で、僕は自転車を漕いでいる。お腹がすきすぎて、猫背になって漕いでいる。だんだんと暗く沈んでいく夏の夕方が、僕は嫌いじゃない。自分の中に潜んでいるいくつかの秘密と、素直に向き合える気がするから。あのこ、どうしてるかな。あのこの笑った顔を思い出す。学校に行けば毎日見ることができたのに。夏休みは好きだけど、嫌いだ。誰もいない道の両側から大きな木がせり出して、影絵のように映っている。夏の虫が合唱をはじめる。

一本道の先にゆらゆらと二つの人影が見えてくる。僕は無音の口笛を吹きながら進んでいく。遠くの二人が電柱のライトに照らされると、僕の心臓はドクンドクンと波打ち始めた。あのこだ。あのこが浴衣を着て、お母さんと話しながら歩いてくる。あのこに声をかけるんだ、挨拶するんだ。なのに。僕はまっすぐ前を見たまま通り過ぎてしまう。

でも、すれ違ってしまう0.1秒前にあのこも僕に気がついた、とおもった。僕は自転車をそのまま少し走らせたけれど、キュッとブレーキをかけて立ち止まった。僕が後ろを振り向くと、その瞬間、あのこも振り返った。そしてあのこは手をあげて、小さくその手をふった。僕も右手をハンドルからはずし、小さく手をふった。浴衣を着たあのこが、僕に手をふってくれた。宇宙の空には、黄色い月がぼんやり浮かんでいる。

*「電車は遅れておりますが」は毎週火曜日に更新しています。

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電車は遅れておりますが

ふわっと映像が浮かんで、
こころが6.6グラム(当社比)軽くなる。
ワンシチュエーションでつづる、
シラスアキコのショートストーリー。

自分がジブンにしっくりくる感じの時は、気分がいい。
こころと身体が同じ歩幅で歩いているのがわかる。
いつもこんな感じで生きていきたい。

でも、かなりの確率でイライラと聞こえてくる
「お急ぎのところ、電車が遅れて申し訳ございません」。

そんな時は“ここじゃないどこか”に、
ジブンをリリースしてしまおう。
きっと気持ちの針が、真ん中くらいに戻ってくるから。

シラスアキコ Akiko Shirasu
文筆家、コピーライター Writer, Copywriter

広告代理店でコピーライターとしてのキャリアを積んだ後、クリエイティブユニット「color/カラー」を結成。プロダクトデザインの企画、広告のコピーライティング、Webムービーの脚本など、幅広く活動。著書に「レモンエアライン」がある。東京在住。

color / www.color-81.com
レモンエアライン / lemonairline.com
contact / akiko@color-81.com

◎なぜショートストーリーなのか
日常のワンシチュエーションを切り抜く。そこには感覚的なうま味が潜んでいる。うま味の粒をひとつひとつ拾い上げ文章化すると、不思議な化学反応が生まれる。新たな魅力が浮き上がってくる。それらをたった数行のショートストーリーでおさめることに、私は夢中になる。

イラストレーション
山口洋佑 / yosukeyamaguchi423.tumblr.com