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満員電車の山登り。

帰宅ラッシュの地下鉄。人と人のあいだにギューッと挟まれて、身体を半分くらいの薄さにしながら、人差し指と中指でピースサインをつくり、肩にかけたカバンの口になんとか風穴をあける。さぁ、ちょうどカバンの中に手首が入る格好になった。彼女は猛烈にリップクリームを取り出したい。カサついた唇に今すぐうるおいを与えたい。指先に全神経を集中させて、モノの素材を感じとる。これはダイアリー、これはハンカチ、これは鍵。カバンの中が、真っ暗なゴツゴツした岩山の風景に変わる。下に下に指先を降ろしていくと、革のポーチにたどりつく。冷たいジッパーをつまみ横に引く。指先はポーチの中に眠る細い円柱型のリップクリームに到達する。人差し指と中指でリップクリームを挟む。岩の障害物たちをかわしながら、UFOキャッチャーの要領で用心深く上へ上へと引き上げていく。もう少しでカバンからリップクリームが救出されるその瞬間。アーーーーーーッ。地下鉄は大きく前へ揺れ次の駅に止まり、リップクリームは指先から離れ、グランドキャニオンに落ちていった。彼女は深めのため息。地上に上がったらリップクリームを三度塗りしてやろうと心に誓う。

*「電車は遅れておりますが」は毎週火曜日に更新しています。

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電車は遅れておりますが

ふわっと映像が浮かんで、
こころが6.6グラム(当社比)軽くなる。
ワンシチュエーションでつづる、
シラスアキコのショートストーリー。

自分がジブンにしっくりくる感じの時は、気分がいい。
こころと身体が同じ歩幅で歩いているのがわかる。
いつもこんな感じで生きていきたい。

でも、かなりの確率でイライラと聞こえてくる
「お急ぎのところ、電車が遅れて申し訳ございません」。

そんな時は“ここじゃないどこか”に、
ジブンをリリースしてしまおう。
きっと気持ちの針が、真ん中くらいに戻ってくるから。

シラスアキコ Akiko Shirasu
文筆家、コピーライター Writer, Copywriter

広告代理店でコピーライターとしてのキャリアを積んだ後、クリエイティブユニット「color/カラー」を結成。プロダクトデザインの企画、広告のコピーライティング、Webムービーの脚本など、幅広く活動。著書に「レモンエアライン」がある。東京在住。

color / www.color-81.com
レモンエアライン / lemonairline.com
contact / akiko@color-81.com

◎なぜショートストーリーなのか
日常のワンシチュエーションを切り抜く。そこには感覚的なうま味が潜んでいる。うま味の粒をひとつひとつ拾い上げ文章化すると、不思議な化学反応が生まれる。新たな魅力が浮き上がってくる。それらをたった数行のショートストーリーでおさめることに、私は夢中になる。

イラストレーション
山口洋佑 / yosukeyamaguchi423.tumblr.com