黒いタートルネックの女。
黒いタートルネックの女は、首も肩も胴も細い。薄いシルエットが浮き彫りになっている。黒いタートルネックの女は、ほの暗いバーのカウンターに座っている。少しの振動でも割れてしまいそうなカクテルグラスを、チェリーピンクに染まった唇にあてる。
黒いタートルネックの女は、自分の部屋の様子を細部まで想い起こしている。椅子の背もたれにかかったタオル、飲み残しのコーヒーカップ、シーツの皺、ピスタチオの殻、床に散らばったレコード。さっきまで一緒だった男とつくりあげた部屋の気配を想い起こしている。それらの気配を1ミリも壊したくなくて、ひとりでバーに来た。男とつくりあげた気配は、どんなアートより芸術的で魅惑的なものだった。
黒いタートルネックの女は、カウンターごしのバーキーパーに尋ねた。「頭の中にある風景を、ずっとそのまま記憶できる魔法のカクテルはないかしら」バーキーパーはゆっくりと頷いた。目の前に届いたのは、星のように細かく砕いた氷が泳ぐ、透明に輝く美しいカクテルだった。(これは…) 黒いタートルネックの女の喉におちていく液体は、紛れもなく氷水だった。バーキーパーはひとこと添えた。「夢から覚めてください」fin
*「電車は遅れておりますが」は毎週火曜日に更新しています。