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人生の初心者になってしまった。

大げんかが勃発したのは夜中の11時22分だった。僕は危険を察知すると “いま何時であるか”を確認する癖があるのだ。夕飯を食べ終えた後くらいから彼女の機嫌は怪しかった。コーヒーをすすりながら愛聴盤の一曲(だけ)を聞き、食後の仕上げをしようと思ったとき「私の前でジャズはやめて!」と叫ばれた。

そして風呂からあがってバスタオルを一瞬だけソファーの上に置いたら「湿気がつくからやめて!」と、今度はバスタオルを放り投げられた。一番嫌いな女性の行動、それは叫ぶこと、ものを投げること。僕の怒り我慢キャパシティは完全に崩壊してしまった。戦いは午前1時18分まで続いた。

朝、目がさめると彼女はベッドにいなかった。リビングに行くとコーヒーの香り、そして「パン焼く?」と聞かれた。しかも友好的な目つきでだ。僕は「うん」と、ものすごく慎重に、かつ普段通りにこたえた。彼女は何を考えているのだろうか。まさか夜中のけんかを覚えていないわけはないはずだ。窓の外をみると、嘘みたいに晴れている。

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電車は遅れておりますが

ふわっと映像が浮かんで、
こころが6.6グラム(当社比)軽くなる。
ワンシチュエーションでつづる、
シラスアキコのショートストーリー。

自分がジブンにしっくりくる感じの時は、気分がいい。
こころと身体が同じ歩幅で歩いているのがわかる。
いつもこんな感じで生きていきたい。

でも、かなりの確率でイライラと聞こえてくる
「お急ぎのところ、電車が遅れて申し訳ございません」。

そんな時は“ここじゃないどこか”に、
ジブンをリリースしてしまおう。
きっと気持ちの針が、真ん中くらいに戻ってくるから。

シラスアキコ Akiko Shirasu
文筆家、コピーライター Writer, Copywriter

広告代理店でコピーライターとしてのキャリアを積んだ後、クリエイティブユニット「color/カラー」を結成。プロダクトデザインの企画、広告のコピーライティング、Webムービーの脚本など、幅広く活動。著書に「レモンエアライン」がある。東京在住。

color / www.color-81.com
レモンエアライン / lemonairline.com
contact / akiko@color-81.com

◎なぜショートストーリーなのか
日常のワンシチュエーションを切り抜く。そこには感覚的なうま味が潜んでいる。うま味の粒をひとつひとつ拾い上げ文章化すると、不思議な化学反応が生まれる。新たな魅力が浮き上がってくる。それらをたった数行のショートストーリーでおさめることに、私は夢中になる。

イラストレーション
山口洋佑 / yosukeyamaguchi423.tumblr.com