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波の延長上にある風景。

海からあがった後はいつもそうなのだ。あるはずもない水の抵抗を感じながら歩いている。生あたたかい風に背中を押されて、木のドアをあける。カウンターには、艶のある髪を横分けにした男と、赤いサマードレスを着たマッシュルームカットの女が座っている。他に客はいない。バーテンダーが振るシェーカーだけが鳴っている。

恋人たちは何も語らない。時おり女がひざの上に抱いたぬいぐるみを「見て」と男に目配せしては、にこりと微笑み合うだけだった。女はぬいぐるみ、という年齢はもちろんとうに過ぎていた。ピンボール台のガラス面は、夕陽のオレンジ色で染まっている。

完璧に敷き詰められたふたりの空気に、ひび割れをつくってしまうのはわかっていたが、僕はアルコールを注文した。恋人たちは催眠術から覚めたように顔を上げて、ぼんやりとカウンターの中を眺めている。

 

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電車は遅れておりますが

ふわっと映像が浮かんで、
こころが6.6グラム(当社比)軽くなる。
ワンシチュエーションでつづる、
シラスアキコのショートストーリー。

自分がジブンにしっくりくる感じの時は、気分がいい。
こころと身体が同じ歩幅で歩いているのがわかる。
いつもこんな感じで生きていきたい。

でも、かなりの確率でイライラと聞こえてくる
「お急ぎのところ、電車が遅れて申し訳ございません」。

そんな時は“ここじゃないどこか”に、
ジブンをリリースしてしまおう。
きっと気持ちの針が、真ん中くらいに戻ってくるから。

シラスアキコ Akiko Shirasu
文筆家、コピーライター Writer, Copywriter

広告代理店でコピーライターとしてのキャリアを積んだ後、クリエイティブユニット「color/カラー」を結成。プロダクトデザインの企画、広告のコピーライティング、Webムービーの脚本など、幅広く活動。著書に「レモンエアライン」がある。東京在住。

color / www.color-81.com
レモンエアライン / lemonairline.com
contact / akiko@color-81.com

◎なぜショートストーリーなのか
日常のワンシチュエーションを切り抜く。そこには感覚的なうま味が潜んでいる。うま味の粒をひとつひとつ拾い上げ文章化すると、不思議な化学反応が生まれる。新たな魅力が浮き上がってくる。それらをたった数行のショートストーリーでおさめることに、私は夢中になる。

イラストレーション
山口洋佑 / yosukeyamaguchi423.tumblr.com